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日々のつれづれ
ここ最近、なんだか変な感じ。
全体としては、仕事運はあがっていると思う。
でも、体がついてこない。
この前、ふらっとしてよろけてしまった。
何日か後には、朝目が覚めてベッドから起きようとしたら、なんだか宙を歩いている感じになったかと思ったら、ばたんと電気スタンドとともに倒れた。
直後のショックが去った後、意識はあったので、ベッドによじのぼって横になった。
目が覚めたら午後だった。
全部の仕事と論文を中断して、しばらくの期間休むことにした。
こうしてまた、一つ思い通りにいかない、挫折してしまった。
担当教諭によると、論文は9月提出か留年だという。
秘書課もいってたけど、上層部の許可がないと留年できないそうだ。
でも、先生の話しぶりでは、たぶん大丈夫みたい。
前期は受かっているから、それも良い判断材料になるみたいだ。
ちょっとというか、かなり無理しすぎた。
医者にいったほうがいいかな・・・。
原因は過労だとわかっているんだけど。
医者にいくのも面倒で、こちらは病院予約とったら、そこで全部検査ができるわけじゃないから。
ところで、この前の仕事で、初めてアルバニア人に会った。
アルバニア人とマケドニア人だ。
マケドニアの人はアルバニア起源の人で、二人はアルバニア語を話しているという。
私が「アルバニアって住民はイスラム教徒が多いんでしょ」と聞いたら、アルバニア人の女性は「今は半々くらいかな。私はキリスト教徒だし、彼(マケドニア人)はイスラム教徒だよ」「そういうのがとてもバルカンっぽいの」という。
二人とも完璧に白人で、そういえば、私はあそこまで白人らしい白人でイスラム教徒という人に、もしかしたら初めて会ったかもしれない。カビル人は、北アフリカのイスラム教徒でも、白人っぽい。カビル人には今まで何人か会っているけど(ジダンみたいな人ですね)。
今回あった先生は、アルジェリア系の人だそうだ。フランスの歴史をあまり話したがらない、先史時代や、人間の起源はアフリカというところから話し始めた。私たちは同じ市民で、ヒューマニティの観点を強調する人だった。
フランスにおいては、コミュニティ主義は差別であると。フランスは一つなのだと。
それをじっと聞く、スカーフをかぶった女性達。
いつも見る光景だ。
この先生はかなり教養があるなと思った。どの先生もそうなのだけど。
今はラマダンのせいで、お昼を食べない人が結構いた。
そのせいで力が入らないのか、だらっと椅子に座って活気のない人が多かったような感じだった。
西城秀樹さんが、亡くなりました。
ご冥福をお祈りします。
息の長い歌手だったというが、本当にそうみたい。
20代はずっと活躍していた。
他のアイドルより、ずっと長いようだ。
(でも沢田研二のほうが長いな。テレビ白黒時代のグループサウンズの時代から30代前半までだから。30代でスターの一線にいたのは、歌謡界史上でジュリーくらいじゃないか)。
大学のオペレッタ専門の先生が「西城秀樹は、良い俳優になれる」と言っていたのを思い出す(当時秀樹は何歳くらいだろう。40代かしら)。
ヤングマンとかエンドレスサマーなんかは記憶があるな。
その前の曲は、今回いろいろ聞いてみたら、知っているのと知らないのがあった。
例えば「ローラ」は知っているけど、「炎」と聞かれても「?」だった。でも聞いてみたら「あれ、私この曲知ってるわ」だった。
絶叫型と言われるらしいが、あんな風に「バカやろう」とか「抱いてやる」とか叫んでいるとは知らなかった。
一番気に入ったのは「炎」だ。いやー、かっこいい。これじゃあ、失神して倒れる女性がいるのは無理ないわ。
私はどうも、馬飼野さんという作曲家が好きみたい。炎の作曲家もこの方。
この人、アニメのベルばらの曲をつけた人よね。
この時代の歌謡曲の作曲家というのは、有名な人が何人かいるけど、みんな豊かな家庭の学歴の高い人が多い。
歌手が一応高卒という人ばっかりだったのと対照的。
家が長唄とか三味線奏者だったとか、そういうのがまだ一部残っている時代でもある。
こういう日本の伝統は、ほとんど死んでしまったけど・・・。
この時代のスターは、みんな歌がうまいな。
聞いていて気持ちいい。
それと当時って、その場で演奏しているのよね。
そういえば、ドリフも、あれは「演劇の中継」だった。
同じ曲を何度も、どの局でも流していると飽きるけど、それでも数ヶ月は平気だったのは、ライブ中継だったからかもしれない。ライブって絶対に同じにならないので。(当時も「口パク」はあったけどね)。
前に志村けんが「何度もはやるまで、人々が覚えるまで、同じギャグをやるのが大事」と言っていた。私はそれを聞いて「なんて古臭い」と思った。でも、今こうして昔のビデオを見ていると、それは時代のテンポというよりも、ライブ中継だったからできたんだと思った。
当時の歌謡界というのはつくられたもので、商業主義の最たるものだったけど、それすら今から見ると、ちゃんとつくっているだけマシという感じがする。つくられたアイドルは、欧米のロック歌手を前にすると霞んで見えたかもしれない。でもスター性のある人をみつけてきて、その人に最高の詩、曲、衣装、振り付けを一流の人から与えることでうまれた「スター」は、確かにスターで輝いていたと思う。みんながみんな、フルセットの才能をもっているわけじゃないからね。
ただ、似てくるというのはある。
曲はともかく、歌詞は圧倒的に阿久悠が多く、ほとんど彼の世界で動いている感じすらする。
でも曲はバラエティに富んでいて、メロディーの黄金時代だなと思う。
私がリアルに感じるのは、その後のたのきんトリオやチェッカーズの頃なのだが、この時代になると、もう歌が下手すぎて聞いていられなくなる。ジャニーズは歌が下手なのか。そのころ私はもう、欧米の音楽ばかり聞いていて、日本の音楽はほとんど聞かなくなっていた。上がいるので、上の影響は大きくて、ませた子供だったなーと思う。
その後には小室の時代がやってきたが、それが終わったら、もう何もなくなってしまった。
正確には、テレビと分離したというべきか。
音楽の才能がない人がバンドという形で大量に登場し、ビジュアル系に走る時代が来て、その後は・・・謎。
テレビはお笑いばっかり。
音楽って不思議。
聞いただけで、「あれ、この曲、聞いたの初めてじゃない」ってわかる。
前に見たエピソード。
アメリカ人の父と日本人の母の間に、日本である男の子が生まれた。
2歳くらいまで日本にいたけど、その後一家はアメリカへ移住。
でも、親は離婚して、母親は子供をアメリカに残して日本に帰国してしまった。
その後、母には会っていない。母の記憶はない。
成人した息子は、日本にやってきた。
日本に来れば、何か思い出せるかもしれないと思って。
でも、日本のことも母親のことも、まったく思い出せない。日本はただの外国だった。
母親はこの日本のどこかにいるはずだが、どこにいるかもわからない。
そんなある日、公園で、ある母親が赤ちゃんを抱いて、歌を歌っていた。
「ねんねんころりよ、おころりよ」と。
それを聞いて、息子は雷に打たれた。
自分はこの歌を知っていると。
今後、もし才能をもらって生まれ変わることができるなら、音楽家がいい。
ずっとそう思ってきた。
そうすれば外国でこんなに苦い思いをしなくてもいいんだろうなー、と思いながら。
頭が混乱しすぎて・・・
どこに書こうかと思ったけど、ここにしておこ。
頭が混乱している。
自分が通うキャンパスに、機動隊が突入した経験のある人っていますかね。
いま70歳より上くらいだとあるのかしら。
いえ、別に自分がいるところに突入してきたわけじゃないのですが。
大学はしばらくの間ずっと学生によって封鎖されていて、まあ討論会とか講演会とかやっているから入れるのですが。通常の授業や事務や図書館は全部閉まってました。
どのみち私は論文書いていて、ほとんど学校に行く用事がなく、行くとしても図書館なので、実際にはあまり関係なかったのです。図書館が閉まっていたのは困ったけど、パリには他にも図書館はあるので、なんとかなってました。
こうも学生側と学校側の言い分が異なるのはありなのでしょうか。
こうも簡単に機動隊がキャンパスに入ってきていいのでしょうか。
いや、簡単にというわけじゃないのだろうけど。
別に大したことじゃないのかしら。
なんだか結構ショックを受けているのは、デモだの何だのほとんど全く存在しない、大学が遊びの場と化している日本から来ているからかしら。それとも、私のいた大学はすごく独立の気風が強くて、とても警察だの機動隊だの入って来る感じがしないからかしら。それってやっぱり私立大学だからなのと、そういう気風のところだからだと思う。
でも、今、昔の安保闘争時代の我が出身大学の闘争(?)をググってみたら、うーん・・・結構機動隊が入ってきているね。そういうものなのかしら・・・。私が免疫がゼロなだけ???
いやでも、自分の大学のキャンパスに機動隊って、そこにいたわけじゃないけど、やっぱり驚きますよ。というか、ショックだわよ・・・。
それに、うちの大学の場合、そんなに大したことしていなかったと思う。グレーブ(ストライキ)はしていたけど、別に乱雑でもなかったし、いたって平穏というか・・・。大学側がいう乱雑で無秩序なんて、少なくとも私が先週行ったときはなかった。この目で見た。機動隊が突入するまでの数日の間に、ものすごく変わってしまったというのだろうか。
それとも、延々と続けるわけにはいかないとか、他から変な分子が乱入し始めたことが問題だったのだろうか。
ああ、わからない。
だれかおしえてほしい。
でもこういうのって、ピケをはっていた(?)学生で、当局との話し合いに出ていたような人じゃないとわからないのだろうな。大学側も、話し合いに参加していた人じゃないとわからない。話し合いに参加していた人でも、学長や政府側が何をしていたかまでは知らないかもしれないし。
あああ、もう混乱。
戦い始めたら、どちらかが負けるまでやるしかないのだろうな・・・。
5月1日のメーデーでは、一部の若者が暴徒化して、マクドナルドをめちゃくちゃに壊したり、火をつけたりした。
極左の人たちのせいにされる話が流れたけど、極左の人は極右のせいだと言っている。
もうどうなっちゃったの、この国。
中道左派の社会党がほぼなくなっちゃったから、こうなったのだろうか。
しかし、マクロンがアメリカ資本主義の手先というのなら、日本なんて100万倍くらいマクロン化している国と言えるわよね。
日本の中道左派もとっくにないし。
それでも日本の腐敗度が極端に走らないのは、やっぱり日本人が穏やかなせいかしら。
移民もいなくて同質的で、まだまだ豊かだからなのかな。
その分、腐敗がわかりにくいという欠点があると思うけど・・・。
もうほんと、どうなっちゃったんだろ、フランスは。。。。
頭が混乱している。
自分が通うキャンパスに、機動隊が突入した経験のある人っていますかね。
いま70歳より上くらいだとあるのかしら。
いえ、別に自分がいるところに突入してきたわけじゃないのですが。
大学はしばらくの間ずっと学生によって封鎖されていて、まあ討論会とか講演会とかやっているから入れるのですが。通常の授業や事務や図書館は全部閉まってました。
どのみち私は論文書いていて、ほとんど学校に行く用事がなく、行くとしても図書館なので、実際にはあまり関係なかったのです。図書館が閉まっていたのは困ったけど、パリには他にも図書館はあるので、なんとかなってました。
こうも学生側と学校側の言い分が異なるのはありなのでしょうか。
こうも簡単に機動隊がキャンパスに入ってきていいのでしょうか。
いや、簡単にというわけじゃないのだろうけど。
別に大したことじゃないのかしら。
なんだか結構ショックを受けているのは、デモだの何だのほとんど全く存在しない、大学が遊びの場と化している日本から来ているからかしら。それとも、私のいた大学はすごく独立の気風が強くて、とても警察だの機動隊だの入って来る感じがしないからかしら。それってやっぱり私立大学だからなのと、そういう気風のところだからだと思う。
でも、今、昔の安保闘争時代の我が出身大学の闘争(?)をググってみたら、うーん・・・結構機動隊が入ってきているね。そういうものなのかしら・・・。私が免疫がゼロなだけ???
いやでも、自分の大学のキャンパスに機動隊って、そこにいたわけじゃないけど、やっぱり驚きますよ。というか、ショックだわよ・・・。
それに、うちの大学の場合、そんなに大したことしていなかったと思う。グレーブ(ストライキ)はしていたけど、別に乱雑でもなかったし、いたって平穏というか・・・。大学側がいう乱雑で無秩序なんて、少なくとも私が先週行ったときはなかった。この目で見た。機動隊が突入するまでの数日の間に、ものすごく変わってしまったというのだろうか。
それとも、延々と続けるわけにはいかないとか、他から変な分子が乱入し始めたことが問題だったのだろうか。
ああ、わからない。
だれかおしえてほしい。
でもこういうのって、ピケをはっていた(?)学生で、当局との話し合いに出ていたような人じゃないとわからないのだろうな。大学側も、話し合いに参加していた人じゃないとわからない。話し合いに参加していた人でも、学長や政府側が何をしていたかまでは知らないかもしれないし。
あああ、もう混乱。
戦い始めたら、どちらかが負けるまでやるしかないのだろうな・・・。
5月1日のメーデーでは、一部の若者が暴徒化して、マクドナルドをめちゃくちゃに壊したり、火をつけたりした。
極左の人たちのせいにされる話が流れたけど、極左の人は極右のせいだと言っている。
もうどうなっちゃったの、この国。
中道左派の社会党がほぼなくなっちゃったから、こうなったのだろうか。
しかし、マクロンがアメリカ資本主義の手先というのなら、日本なんて100万倍くらいマクロン化している国と言えるわよね。
日本の中道左派もとっくにないし。
それでも日本の腐敗度が極端に走らないのは、やっぱり日本人が穏やかなせいかしら。
移民もいなくて同質的で、まだまだ豊かだからなのかな。
その分、腐敗がわかりにくいという欠点があると思うけど・・・。
もうほんと、どうなっちゃったんだろ、フランスは。。。。
前期をふりかえって。。。
この前、担当教官と色々お話をした。
そこではっきりしたのだが、私の成績では、いま行っているところの博士課程には受からないそうだ。
日本風にいうと、最低でも75点ないとダメで、いまのところ私は約60点だから無理だそうだ。
まだ後期が残っているが、どんなに頑張っても、とても平均点が75点に行くのは無理だろう。
「フランス中そうなんですか」と聞いたら、「他はまったくわからない。うちの学科の話」ということだった。
まあ・・・当然かなと思う。
世界中から学生がやってくるんだもの。
マスター1から2への選抜も問題になっている。
マスターですら人数が減っちゃって、前は3ー4専攻があって80人が定員だったのに、今じゃ50人だものね。今年は60人とったらしいけど。
マスターに受かったのが奇跡だったのだ。
周りを見ていて、いつも「なぜ私がここにいるんだろう」と思い続けていた。
特に、フランス人よりも外国人学生のほうが優秀だと感じていた。
母国の出身校聞くと、さすがにイギリスのケンブリッジ大学とカーディフ大学は知っていたが、意外に他の国の大学を全然知らないことに気づいた。ネットで調べてみると、どの人でもその国を代表するような大学の出身者ばかり。本当になぜ私がここにいる。
日本人が極めて珍しかったこと、応募の資格を十分に満たしていたこと、あとはあえて言うなら「志望動機書」だったかもしれない。
でも、なんといっても、やはり「日本人が珍しい」。これに尽きると思う。
私はいつも「パンダ特権=アジアの珍しい動物」と自分を呼んでいた。
アジア人そのものはいるんだけどね。
毎年、2ー3人くらいかな。圧倒的少数派ではある。
やっぱり上に行くのは無理か。
わかっていたけど。
でも、私は頑張った。
もうこれ以上、できない。
ちょっと「もし留年して、配分をして良い成績とっていれば・・・」と思ったが、そんなのは無理な話。すでに1回留年していて、これも息も絶え絶えだった。
2年生になって、「絶対もう留年したくない」と思って、毎日睡眠4時間で頑張った。
仕事もあるからね(お金稼がないと)。
ついに皮膚にかさぶたのようなものが広くひろがり、かゆくて、これ以上我慢ができないので医者にいった。そうしたら「これはシャンピニオン(きのこ)だ」と言われた。
つまり、空気中にはばい菌がたくさん漂っている。通常なら大丈夫なのだけど、体が弱ると抵抗力がなくなって、皮膚にはえるそうだ。
クリームを塗ったらかゆみがおさまったけど、次のをもらうためにまた医者に行かないといけなかったのだが、もう本当に大変でお風呂に入る時間すら惜しくて。そうこうしているうちに、かさぶたはものすごく厚みを増して、後ろだからよく見えなかったのだけど、ある日あまりにもかゆくて見たら、焦げ茶色になっていた。前のは赤かったのに。
それでもう医者に行かないわけにいかなったので行ったら、「これはもうシャンピニオンじゃない!専門医に行かないとダメ!」と言われた。消毒液みたいのを処方された。でも専門医にランデヴー取りで電話をかけたら「予約は2ヶ月後」と言われ、他を探してかけるのもおっくうで、ほったらかしにしてしまい、結局かゆみに耐えて前期は終わった(お正月に日本に帰ったら治りました)。
前期はとにかく発表が多く、発表リストをつくって2週間に1回くらいあったような気がする。もちろんレポートも山のようにあり。相対的にテストは少なかったけど。よく生き延びられたと思う。それで仕事もしていたのだから。
でも、あんなに頑張ったのに、点は思ったより良くなかった。
本当にがっかりだ。
でも、これが私の実力なのだと思う。
それは、もちろん思わないでもない。
もっと若かったら。
もっと語学の才能があったら。
もっと優秀だったら。
もっと抱えている問題が少なかったら。
もっとお金持ちだったら。
でも、言い出したらキリがない。
私は頑張った。
もうこれ以上頑張れなかった。
それで「この成績では上は無理」というのなら、これが私の能力の限界なのだ。
秘書の人に「でも、通っているんだからいいじゃない」と慰められた。
まあ確かにそれはそうだ。
外国人だけはなくてフランス人も、いなくなった人はいる。
私が知っているだけでも結構いるのだから、かなりいるのではないか。
自分の意志で去った人もいるけれど、マスター2への選抜に受からなかった人とか、留年しようと思えばできたのだろうけど、あきらめて去った人とか。
病気の人もいる。
なぜかすごく多い。
秘書の人も「また!なぜ今年はこんなに多いの」といい、学科長は多いから人が混同しているようだった。私が「◯◯さんのことなんですけど」といったら「ああ、あの手術のために中国に行った人?」と言われた。違います・・・。そういう人もいるのだとわかった。
テロの暗い雰囲気が関係あったと思う。
日本人は二言目には「頑張ってね」という。
ほとんどあいさつがわりだ。
でも、私は最近言わなくなった。
日本人と話していないというのもあるのだが、なんだか言う気がしないのだ。
あきらめることによって得られる心の平和がある。
あきらめるというよりも、本当にもうこれ以上できなかった。
「やるだけやれば、失敗しても悔いはない」とか言うけれど、そんなにカッコのよいものではない。
すがすがしくもないし、気分はさわやかでもない。
「人生にあるのは、仕事だけだ」と言ったのは誰だっけ。
そういう気持ちです。
そこではっきりしたのだが、私の成績では、いま行っているところの博士課程には受からないそうだ。
日本風にいうと、最低でも75点ないとダメで、いまのところ私は約60点だから無理だそうだ。
まだ後期が残っているが、どんなに頑張っても、とても平均点が75点に行くのは無理だろう。
「フランス中そうなんですか」と聞いたら、「他はまったくわからない。うちの学科の話」ということだった。
まあ・・・当然かなと思う。
世界中から学生がやってくるんだもの。
マスター1から2への選抜も問題になっている。
マスターですら人数が減っちゃって、前は3ー4専攻があって80人が定員だったのに、今じゃ50人だものね。今年は60人とったらしいけど。
マスターに受かったのが奇跡だったのだ。
周りを見ていて、いつも「なぜ私がここにいるんだろう」と思い続けていた。
特に、フランス人よりも外国人学生のほうが優秀だと感じていた。
母国の出身校聞くと、さすがにイギリスのケンブリッジ大学とカーディフ大学は知っていたが、意外に他の国の大学を全然知らないことに気づいた。ネットで調べてみると、どの人でもその国を代表するような大学の出身者ばかり。本当になぜ私がここにいる。
日本人が極めて珍しかったこと、応募の資格を十分に満たしていたこと、あとはあえて言うなら「志望動機書」だったかもしれない。
でも、なんといっても、やはり「日本人が珍しい」。これに尽きると思う。
私はいつも「パンダ特権=アジアの珍しい動物」と自分を呼んでいた。
アジア人そのものはいるんだけどね。
毎年、2ー3人くらいかな。圧倒的少数派ではある。
やっぱり上に行くのは無理か。
わかっていたけど。
でも、私は頑張った。
もうこれ以上、できない。
ちょっと「もし留年して、配分をして良い成績とっていれば・・・」と思ったが、そんなのは無理な話。すでに1回留年していて、これも息も絶え絶えだった。
2年生になって、「絶対もう留年したくない」と思って、毎日睡眠4時間で頑張った。
仕事もあるからね(お金稼がないと)。
ついに皮膚にかさぶたのようなものが広くひろがり、かゆくて、これ以上我慢ができないので医者にいった。そうしたら「これはシャンピニオン(きのこ)だ」と言われた。
つまり、空気中にはばい菌がたくさん漂っている。通常なら大丈夫なのだけど、体が弱ると抵抗力がなくなって、皮膚にはえるそうだ。
クリームを塗ったらかゆみがおさまったけど、次のをもらうためにまた医者に行かないといけなかったのだが、もう本当に大変でお風呂に入る時間すら惜しくて。そうこうしているうちに、かさぶたはものすごく厚みを増して、後ろだからよく見えなかったのだけど、ある日あまりにもかゆくて見たら、焦げ茶色になっていた。前のは赤かったのに。
それでもう医者に行かないわけにいかなったので行ったら、「これはもうシャンピニオンじゃない!専門医に行かないとダメ!」と言われた。消毒液みたいのを処方された。でも専門医にランデヴー取りで電話をかけたら「予約は2ヶ月後」と言われ、他を探してかけるのもおっくうで、ほったらかしにしてしまい、結局かゆみに耐えて前期は終わった(お正月に日本に帰ったら治りました)。
前期はとにかく発表が多く、発表リストをつくって2週間に1回くらいあったような気がする。もちろんレポートも山のようにあり。相対的にテストは少なかったけど。よく生き延びられたと思う。それで仕事もしていたのだから。
でも、あんなに頑張ったのに、点は思ったより良くなかった。
本当にがっかりだ。
でも、これが私の実力なのだと思う。
それは、もちろん思わないでもない。
もっと若かったら。
もっと語学の才能があったら。
もっと優秀だったら。
もっと抱えている問題が少なかったら。
もっとお金持ちだったら。
でも、言い出したらキリがない。
私は頑張った。
もうこれ以上頑張れなかった。
それで「この成績では上は無理」というのなら、これが私の能力の限界なのだ。
秘書の人に「でも、通っているんだからいいじゃない」と慰められた。
まあ確かにそれはそうだ。
外国人だけはなくてフランス人も、いなくなった人はいる。
私が知っているだけでも結構いるのだから、かなりいるのではないか。
自分の意志で去った人もいるけれど、マスター2への選抜に受からなかった人とか、留年しようと思えばできたのだろうけど、あきらめて去った人とか。
病気の人もいる。
なぜかすごく多い。
秘書の人も「また!なぜ今年はこんなに多いの」といい、学科長は多いから人が混同しているようだった。私が「◯◯さんのことなんですけど」といったら「ああ、あの手術のために中国に行った人?」と言われた。違います・・・。そういう人もいるのだとわかった。
テロの暗い雰囲気が関係あったと思う。
日本人は二言目には「頑張ってね」という。
ほとんどあいさつがわりだ。
でも、私は最近言わなくなった。
日本人と話していないというのもあるのだが、なんだか言う気がしないのだ。
あきらめることによって得られる心の平和がある。
あきらめるというよりも、本当にもうこれ以上できなかった。
「やるだけやれば、失敗しても悔いはない」とか言うけれど、そんなにカッコのよいものではない。
すがすがしくもないし、気分はさわやかでもない。
「人生にあるのは、仕事だけだ」と言ったのは誰だっけ。
そういう気持ちです。
ミラノのフィギュアスケート世界選手権2018をフランスで見ていて思った
ミラノの世界選手権2018、ガラを残して終わりました。
男子フリー、みんな転びまくっていましたね。平昌の団体戦みたい。
やっぱりオリンピックの後で疲れていたのかしら。
さて、フランス2(NHKに相当)で見ていました。
フランスって、解説はなぜか3人が多い。日本だと2人が多いと思うのだけど。
今回は、アナウンサー(ネルソン・モンフォーね)とフィリップ・キャンデロロとアニック・デュモン。スポーツ中継だから、全体的に見るとトーンは明るく、「よく頑張った!」「なんという頑張り(勇気)!」みたいに讃える調子である。しかし、日本と違って、本当によくしゃべるんだわ、これが。
でも、アメリカ(カナダ)の中継よりはマシだけどね。あの人たちって、静寂があってはいけないと思っているのではないかと思うくらい、よくしゃべる。私は画面に向かって「うるさい!黙れ!見ろ!」と言っていたものだ(苦笑)。フランスは、そこまではいかない。
さて、フランスでもメインにしゃべるのは、もちろんアナウンサー(というかプレゼンター)。
日本ではアナウンサーは、「んーーーサルコウ4回転、決まりました」「演技は後半に入ります」という客観的な説明が主で、自分の感想は少ない。声の調子も落ち着いている。
でもフランスのアナウンサーは、明るい声でよく話し、「うわーっ、これは大変だぁ!」とか叫んでいる。昌磨さんがフリーで2度目に転んだ時は、「ウノ・プロブレム!」とか冗談を飛ばして喜んでいた(注:ウノ unoとは、英語のa/anに相当)。昌磨さんが真剣にすべっているというのに、笑っちゃったじゃないの(笑)。ラテンだわ。
フィリップ・キャンデロロは、あまり話さない。「いるの?」という感じ。
よく話すのは、アニック・デュモンのほう。日本の解説者は中立的な技術解説に徹するけど、フランスは違う。アニックさんは自分の意見とか言いたいことしゃべりまくり。そしてこの人は、明らかに宇野昌磨さんのファン。というか、フランス人は昌磨さんが好きみたい。彼のように構成点が高くなれる芸術性の高い滑りは、フランス人の好みだと思う。昌磨さんの時は、フィリップ・キャンデロロが珍しく話に参加していたしね。
しかし、アニックさんは外しまくっている。
昌磨さんの後にミハイル・コリヤダが滑って「2回転んだけど(色々述べて)昌磨さんより上をいくと思う」と力説。(アナウンサーが「3回では?」と返した。正解は2回です。セ・パ・グラーヴ! :-) )。しかし結果は、晶磨さんのほうが上でした。
これ、平昌の時も同じだった。たぶん声からして出演していたのはアニックさんだったと思うのだけど、昌磨さんが滑り終わった後、点数を待っている間、いかに昌磨さんが素晴らしいかをひっきりなしに話し続け「私は羽生より宇野が上だと思うわ!」と興奮して語っていたが、結果は違った。
しかし、こういうふうに
結構しゃべる男。
しゃべりまくる女。
ほとんど話さない男。
という3人の組み合わせは、実にフランスっぽい感じがする。
確かにこれはスポーツ中継なので、独自のバランス感覚はあると思う。
日本では、解説者の話にアナウンサーが突っ込みを入れることは、ほぼ皆無である。お互いに静かな会話をする。日本の解説者って、自分独自の見解や好みは言わないしね。
でもフランスでは、彼らなりに抑制をきかせてはいるが、そうしている。
そういうのを抜きにしても、一般的に見て、よくしゃべる男と女がいると、必ず割とおとなしい男がいる、という構図。おとなしい女は、あまりいない。
それにしても、フィリップ・キャンデロロ、もうちょっと話してもいいんじゃ・・・。
ほんと「あら、いたの?」て感じ。
発言をめぐっては過去に色々あったらしいが、それでもそこにいる価値のある大スターなのだろう。
(もっとも映った彼は、普通の優しそうな殿方に見えましたが・・・)。
話は変わって、フランスだと、平昌も今回のミラノ世界選手権も、全種目がネットで生中継していた。しばらくの間は、ビデオとしてそのまま見られる。ネット中継のほうが余計な声がなくて静かだし、演技を終わった選手の声とか、キス&クライで話している声も聞こえるので、楽しい。
例えば平昌のとき、ショートが終わってキス&クライに座ったアダム・リッポンが「I love you guys!」と叫んだ。採点が発表されて、彼が両脇に座っている二人の男性コーチを交互に指して「this guy and this guy」と明るく笑って答えた。おそらく他の人が「guysってだれ?」と聞いたのだろう。彼はゲイということだから、余計な憶測を呼んだのかもしれない。
昌磨さんが平昌でフリーを滑り終わって戻って来たときの第一声は「あぶねー」だった。
こんな声を聞けるのは、ファンとしては楽しい。
選手から見ると、油断もスキもなくて、何もかも世界に公表されて嫌かもしれませんが・・・。
日本じゃ、全部をネット中継なんてありえない。
日本は、民放がすごく発達していることからくる権利の複雑さが、最も大きな理由だろう。
こういうところにも、日本とフランスの国家と社会のあり方の違いを感じるが、今回はそういう硬い話は抜き。
ところでいつも思うのだけど、日本って、日本の選手がすべりおわると、まだ息も切れていないのにすぐにインタビューをとるわよね。あれって他の国も同じなんだろうか。
それと演技のあと、どの国の選手もみんな、自国メディアばかりに答えているのかしら。メダルが期待される有名選手もみんなそうなの? どの国の人も? 世界のファンに向けての発信はなし? (メダルをとったメダリストは別です。メダルが確定する前の話)。
フランスってどうだったかな。そもそも「演技直後のインタビュー」という発想がないような。もっと落ち着いてから話を聞いているのはよく見る(最近はネット生中継ばかり見ているので、確かじゃないけど)。
あと「世界のファンに声を届ける」という意味では、フランス語は、英語ほどじゃないけど一応国際言語なので、フランス語がわかる記者がインタビュー場所に行けばいいだけの話だから、関係ないかも。
まあね、日本は本当にフィギュアが盛んだから・・・。
ミラノの会場も、例によって日本の広告だらけ。日本企業がなかったら、そもそも開催できないのでは、と思うくらい。
いわゆる「芸能界」的なノリで大騒ぎするのは、日本の民放テレビの文化。つまり「芸能界」「スポーツ選手も芸能人的な存在」としての消費。実に独特。
他の国にはそういうの、ほとんどないものね。少なくとも欧州にはない。もっとスポーツとして楽しんで見ている感じがする(もちろん熱狂的ファンはいるけどね)。日本の真似している韓国とか中国にはあるのかも。
やっぱり「民放テレビ」「社会が個人主義か否か」というのが、ポイントかなと思う。
そういうふうに芸能界っぽく盛り上がるのは、悪いことだとは思っていない。楽しめるし、いいんじゃないかしら。いろいろな楽しみ方があっていいと思うし、こういう世界があるからこそ、引退した選手もアイスショーを続けられたり、芸能活動で生活の糧を得ることもできる。
ただ・・・本来はアマチュアスポーツなのに、巨額のお金が動くわけで、そういうしがらみで選手が苦しめられることはないのだろうか。ちゃんとアマチュアスポーツの一線は引かれているのだろうか。
もっともお金のかかるアマチュアスポーツは、企業の援助がないと続けられない。「地元の選手を純粋に応援したい。口は出しません」というような、ものすごく幸せなスポンサーがつくケースは例外じゃないだろうか(あと、出版界にいた私の狭い経験で言えば、航空会社はかなりラクで制約が少なく、かつ便宜は多いありがたいスポンサー。羽生さんにANAがついているのは、そういう意味で羽生さんのために本当によかったのではないかと感じじる)。
でもそういうのは例外。民放テレビで芸能界的に盛り上がって宣伝効果が期待できるからお金を出すわけで・・・。そういうお金があればこそ、アマチュア選手が強くなることもできる。そうすれば国のメダル数が増える、となる。
でもね、「日の丸を背負って」って、どうなんだろ・・・。
この表現や、このプレッシャーをフランス人が知ったら「極右みたい(笑)」というかもしれない。逆に極左や独裁国家的、とも言える(国のメダルのためにドーピングをやっているソ連ーロシアみたいな国のこと)。
そりゃ、どこの国の人だって、自分の国の選手がメダルをとれば嬉しいよ。地元で祝勝パレードをする場合もあるでしょう。「日の丸を背負って」って、表現はソフトになっているけど、結局「国のために戦う」「国のためにメダルをとらねば」ってことでしょう? そんな発想、西欧とか北米みたいな先進国にあるかな??? 私はないと思う。
(厳密に言えば、スポーツによって違うでしょう。あとオリンピックは夏のほうがそういうプレッシャーが強そう)。
それと「楽しんで」「楽しみたい」ってすぐに言うよね。
あれはきっと、昔はもっと「お国のために!」「必死でやれ!」みたいな感じが強かったみたいだから、対抗として現れた文化というか発想なのだと思う。「お国のために」とは言わずに「日の丸を背負って」という婉曲表現になったのも、そういう時代の流れなのだろう。
でもね、猫も杓子も「楽しんで」って、何よ・・・と私は思う。
もっと自分の表現はないのか。
別に、「独特の個性的表現をしろ」と言っているのではない。
なんかこう、社会に言わされている感が、私は気に入らない。
こういうふうに言っておけば無難だろう、叩かれない、というのはあるのだろう。
それだけ日本は、スポーツ選手が芸能化という消費社会にどっぷり入り込んでしまっているので、何かあるとすごい勢いで集団で叩かれるので、こうなるのかもしれない。
もともと「日の丸を背負って」という発想があるほど、集団主義が強い国だし。
私はそういう、社会も個人も右にならえ、というのが好きじゃないのだ。
はっきり言うと、嫌いである。
でも、オリンピックに出るような選手はみんな10代とか20代前半が多くて若いから、社会の風潮に従って、なんとなくそんなふうに言ってしまうのは仕方ないとは思うのだけどね・・・。
私は芸能界が好きじゃないので、よけいに好きなスポーツの芸能化は考えてしまうのかも。
芸能人が集まって騒いでいる番組にはまったく興味がないので。
「ヴァイオリンのためのソナチネ」がソチで使用されるということで、新垣隆氏がカミングアウトした、あの佐村河内守の騒動のとき、佐村河内を擁護するどころか「ゴーストライターは引っ込んでろ!出てくるな!ずうずうしい」みたいな感じの芸能人が多いのには本当にヘドが出た(汚い表現ですみません。私がこんな汚い表現使うのはものすごく珍しいです)。
みんないかに、ゴーストライターを使っているのかが見え見えになった。
使うなら使うで堂々としてればいいのに。
佐村河内もそうだったが、彼はプロデューサーとして名乗っていれば、なんの問題もなかった。
芸能人だって同じ。ゴーストライターが書いたシナリオどおりにしゃべっているのだとしても、作詞作曲と歌手が別の人でも普通なように、堂々としていればいい。
そこにあるのは「自分が目立ちたい」「自分の才能だと思われたい」という曲がった欲。
ああ、嫌だ、嫌だ。
ふなっしーが流行って、ふなっしーに「いくらもうかっているか」と聞く芸能人も山ほどいた。視聴者は純粋にふなっしーを愛していたのに、あれも芸能人の品性を見る思いで嫌悪感がわいた。カネと嫉妬。
ああ、もう本当に嫌だ。
でも「マツコの知らない世界」「お宝鑑定団」みたいな番組は大好き。最近では「池の水を抜く」とかね(笑)。あのワニガメは元気にしているかな。故郷から無理やり引き離されて日本に連れてこられて、気の毒に・・・。
例によって話がそれました。
フィリップ・キャンデロロは、こんな風にたまにテレビに出ていますが、他の国の引退した選手たちはどうしているのかな。
今日はこのへんで。
ついしん1: あのキス&クライの背景の絵。確かに美しい。ドゥオーモなのはわかる。座るとちょうどイスみたいに白い尖塔のところがくるのも、デザイン的に考えていると思う。でも、真正面にまるで十字架=宗教に見えるようなものが来るって、どうよ。もちろん、「あれは建築デザインです。宗教じゃないです」と文句はつけにくい線でつくってあるのはわかる。うーんイタリアだわー。フランスだと、ないかもしれない。
メダル授賞式の女性たちの服装もすごかった。美しい。ルネッサンス風衣装と現代風衣装(白)の女性に分かれていた。6人全員衣装が違った。さすがデザイン大国。でも、はりきりすぎでは・・・(笑)。
ついしん2:他に書く機会がなさそうなので書いてしまう。私は「オリンピックという売買春問題」というテーマには関心をもっている。それは女性の平等と保護と権利に強い関心をもっているからだ。(世界「男女平等ランキング2017」で調査対象144カ国中、111位というサイテーの日本でこういうこと言っても、嫌がられるだけだけどさー)。だからソチでの東ヨーロッパから来た女性の売春問題は結構知っている。売春が組織化されていて(マフィア)、貧しさから身を売る東欧の女性たちの問題だった。
平昌ではどうだったのだろう。語られていたのは、北朝鮮の美女軍団ばっかり。日本のメディアはメダルの数は気にしても、こういうことは何も語らない。さすが男女平等最低ランクの国だけのことはある。
生々しい話だが、極度の緊張をせまられるアスリートには、心身のバランスのために、セックス・性欲処理を必要とする男性がいるのだ。戦争で、占領したばかりの地で兵士による集団レイプが起こるのも、同じ理屈だ。
選手村に、避妊具が置かれていることもある。女性にも性欲があって、選手同士で一夜の関係をもったりするらしいが、それは売買春の問題ではないので、あまり関心がない。
どちらにせよ日本選手は関係ない・・・のかな。だって、ママと一緒にやってきて、ママの手作り料理を食べているらしいから。なんだかなー・・・。
アマチュアだから仕方ないかもしれないし、それで体調管理が万全になれるのなら、今までの成果を出し切れるのなら、それもアリなのかもしれない。仕方ないね、好きにして、ということにしよう。
でも、ママの付き添いは「お母さん、頑張っているんですねー!」って美談で語る話なのか?? もう成人した男なのに。そんな選手、他の国にいるのだろうか。
まあ・・・みんなただでさえ若い上に、小さい頃からそのスポーツ一筋でやってきているから、世間知らずなのだろう。マフィアも、そういうアスリートの若さと世間知らずに付け込んでいるのかもしれない。
ああ、なんだか袋叩きにあいそうなことを書いてしまった。でも、日本人はオリンピックの時は特に、二言目には「努力」「目標に向かって」と耳にタコができるほど言いたがるが、目標に向かって努力しているのなら、他の環境はどうでもいいのか、と私は思ったりするのです。
私がそう思うのは、留学生と会うことが日常茶飯事で、今までたくさんの留学生に出会ってきた環境にいるからだと思う。
外国生活で悩みをもつ人は多い。うまく交流できなかったり、言葉が話せなかったり、なじめなかったりで、日本人だけで固まるとか、ウツになることも。
でも大人はみんないう。「いろいろなことを積極的にやりなさい。積極的に現地の人との交流に参加しなさい。自分の殻に閉じこもっていてはいけません。失敗してもいい。若い時のそういう体験はとても大切なことです」と。私もそう思う。
選手を「日の丸を背負っている」「メダルという目標に向かって努力する素晴らしい人」と見て特別扱いして、選手の一人の人間としての自由と自立の問題に目をつぶるのはいかがなものだろうか。
ハビエル・フェルナンデスは、カナダという外国で自立して生活しているが、それでも立派にオリンピックで銅メダルをとり、世界選手権で2度もチャンピオンになっている。「可愛い子には旅をさせろ」である。でも、彼は特別なのではない。欧米では、成人すればこうやって自立するのが当たり前なのだ。彼は当たり前のことをしているにすぎない。どうしても、日本の社会の特殊性を考えずにはいられない。周りが助けるのはいいが、やっぱりママがオリンピックにまでついてきて、あれこれ世話をやくのを美談で語るのはいかがなものかと思う。
選手は言うかもしれない。「私が金メダルを取りたいんです。そのために母が協力してくれるのに、何がいけないのですか」と。そうしたら私は、選手の純粋培養ぶりに、うなだれて涙ぐんでしまうかもしれない。
日本の選手のみなさんは、本当に受け答えも優等生で、謙虚で立派な人が多い。家族の教育が行き届いているのかもしれない。だから一面を見て批判するのは行き過ぎかもしれないとは、自分で批判しておきながら思う。
それに、あんな日本の芸能界やメディアであっても、スポーツのアマチュア選手に対しては、それなりの、多少の自制のようなものが働いている部分があるのは認める。
そういう部分と、選手はみんな「とっても良い子」という事実で、人々は安心して見ていられるという側面はあり、だから教育的に推奨もできて、幅広いファンもつくというのは否定しない。
でも、なんというか・・・私は哀れさを感じることがよくある。「良い子」すぎて。「良い子」を強制されているというか。もっと自由でもいいじゃないか。才能があるなら、なおさらだ。
ただそれには自立がセットでならなくてはならない。もう子供じゃないんだから。才能があろうとなかろうと、大人はみな同じ。
才能があって高みにいる人しか見えない光景があるはずだ。
「みなさんのおかげで・・・」はわかった。感謝の意はもう十分伝わった。
凡人にはわからない、オリンピックや世界選手権レベルの人ならではの経験や感じたことがあるはずでしょう? それが「うぬぼれ」「偉そう」「上から目線」に聞こえる内容であっても、私はそれが聞きたいし、知りたい。
若くて才能があって有名で舞い上がると、たくさん変なことをするかもしれない。でもいいじゃないか。私は、若い選手が変なことや愚かなことをしても、苦笑はしても叩かないよ。人権侵害に関わる差別的な内容ではない限りはね。微笑ましいし、そのほうが多様性があって面白いと思う。
いつも保護者付きの「たいへん良い子」と、自立していて「自由に言動する子」では、日本社会では、アマチュア選手だと前者でないと受け入れてもらえない。「日の丸」とか「チーム日本」という名前の責任を背負わされるから、良い子じゃないと困るからね。それに、ちょっとでも偉そうなことを言おうものなら、集団で叩かれてしまう。だから、一人の人間としての自立なんてどうでもいいの、大の大人にいつもママがくっついていても「良い子」なほうがいいの、多様性なんかなくてもいいの、だからお国のためにメダルをとってきてちょうだいーーというのは言い過ぎか。
日本どっぷりの日本人にいってもわかってもらえないかもしれない。渦中にいる人は気付かないから。何かの枠にはめられると、はめられていることも気づかないし、枠にはめられたことしか考えられなくなってしまう。多様性のとても少ない日本社会。まあ・・・スポーツ選手だから、身体表現や成績が一番重要なのであって、結局他はどうでもいのかもしれないけど。
はた、と手がとまり「なぜ私はこんなにムキになっているのだろう」と思う。自分でもよくわからないが、要するに私は、選手を批判したいのではなく、日本の社会を(例によって)批判したいのだと思う。動機は簡単だ。さっきも書いたように、私は日本の「良い子」の選手を見ていると、なんだかかわいそうになってくるからだ。
あんなに才能のある方々なのだから、私なんかに哀れんでもらわなくても結構、才能のある方々には彼ら独自の重荷がある、若くして大変なのだから、家族の協力が不可欠そうなのもわかっている。
でも選手は、現役時代は短く、引退してからのほうが人生は長い。
彼らはどうするのだろう。オリンピックでメダルをとった人だって、食べていくのは難しいのがアマチュア選手。スケートだとアイスショーとかあるけれど、あれだって頑張っても40歳くらいまででしょう。次から次へと新しい選手は現れ、人々の記憶は薄れ忘れっぽく、人気はうつろいやすく、スポーツ選手は体が動かなくなっていく。でも、フィギュア選手はお金持ちの家の子供が多いらしいから、関係ないのかしら。。。
アマチュアスポーツって難しいですね・・・。
男子フリー、みんな転びまくっていましたね。平昌の団体戦みたい。
やっぱりオリンピックの後で疲れていたのかしら。
さて、フランス2(NHKに相当)で見ていました。
フランスって、解説はなぜか3人が多い。日本だと2人が多いと思うのだけど。
今回は、アナウンサー(ネルソン・モンフォーね)とフィリップ・キャンデロロとアニック・デュモン。スポーツ中継だから、全体的に見るとトーンは明るく、「よく頑張った!」「なんという頑張り(勇気)!」みたいに讃える調子である。しかし、日本と違って、本当によくしゃべるんだわ、これが。
でも、アメリカ(カナダ)の中継よりはマシだけどね。あの人たちって、静寂があってはいけないと思っているのではないかと思うくらい、よくしゃべる。私は画面に向かって「うるさい!黙れ!見ろ!」と言っていたものだ(苦笑)。フランスは、そこまではいかない。
さて、フランスでもメインにしゃべるのは、もちろんアナウンサー(というかプレゼンター)。
日本ではアナウンサーは、「んーーーサルコウ4回転、決まりました」「演技は後半に入ります」という客観的な説明が主で、自分の感想は少ない。声の調子も落ち着いている。
でもフランスのアナウンサーは、明るい声でよく話し、「うわーっ、これは大変だぁ!」とか叫んでいる。昌磨さんがフリーで2度目に転んだ時は、「ウノ・プロブレム!」とか冗談を飛ばして喜んでいた(注:ウノ unoとは、英語のa/anに相当)。昌磨さんが真剣にすべっているというのに、笑っちゃったじゃないの(笑)。ラテンだわ。
フィリップ・キャンデロロは、あまり話さない。「いるの?」という感じ。
よく話すのは、アニック・デュモンのほう。日本の解説者は中立的な技術解説に徹するけど、フランスは違う。アニックさんは自分の意見とか言いたいことしゃべりまくり。そしてこの人は、明らかに宇野昌磨さんのファン。というか、フランス人は昌磨さんが好きみたい。彼のように構成点が高くなれる芸術性の高い滑りは、フランス人の好みだと思う。昌磨さんの時は、フィリップ・キャンデロロが珍しく話に参加していたしね。
しかし、アニックさんは外しまくっている。
昌磨さんの後にミハイル・コリヤダが滑って「2回転んだけど(色々述べて)昌磨さんより上をいくと思う」と力説。(アナウンサーが「3回では?」と返した。正解は2回です。セ・パ・グラーヴ! :-) )。しかし結果は、晶磨さんのほうが上でした。
これ、平昌の時も同じだった。たぶん声からして出演していたのはアニックさんだったと思うのだけど、昌磨さんが滑り終わった後、点数を待っている間、いかに昌磨さんが素晴らしいかをひっきりなしに話し続け「私は羽生より宇野が上だと思うわ!」と興奮して語っていたが、結果は違った。
しかし、こういうふうに
結構しゃべる男。
しゃべりまくる女。
ほとんど話さない男。
という3人の組み合わせは、実にフランスっぽい感じがする。
確かにこれはスポーツ中継なので、独自のバランス感覚はあると思う。
日本では、解説者の話にアナウンサーが突っ込みを入れることは、ほぼ皆無である。お互いに静かな会話をする。日本の解説者って、自分独自の見解や好みは言わないしね。
でもフランスでは、彼らなりに抑制をきかせてはいるが、そうしている。
そういうのを抜きにしても、一般的に見て、よくしゃべる男と女がいると、必ず割とおとなしい男がいる、という構図。おとなしい女は、あまりいない。
それにしても、フィリップ・キャンデロロ、もうちょっと話してもいいんじゃ・・・。
ほんと「あら、いたの?」て感じ。
発言をめぐっては過去に色々あったらしいが、それでもそこにいる価値のある大スターなのだろう。
(もっとも映った彼は、普通の優しそうな殿方に見えましたが・・・)。
話は変わって、フランスだと、平昌も今回のミラノ世界選手権も、全種目がネットで生中継していた。しばらくの間は、ビデオとしてそのまま見られる。ネット中継のほうが余計な声がなくて静かだし、演技を終わった選手の声とか、キス&クライで話している声も聞こえるので、楽しい。
例えば平昌のとき、ショートが終わってキス&クライに座ったアダム・リッポンが「I love you guys!」と叫んだ。採点が発表されて、彼が両脇に座っている二人の男性コーチを交互に指して「this guy and this guy」と明るく笑って答えた。おそらく他の人が「guysってだれ?」と聞いたのだろう。彼はゲイということだから、余計な憶測を呼んだのかもしれない。
昌磨さんが平昌でフリーを滑り終わって戻って来たときの第一声は「あぶねー」だった。
こんな声を聞けるのは、ファンとしては楽しい。
選手から見ると、油断もスキもなくて、何もかも世界に公表されて嫌かもしれませんが・・・。
日本じゃ、全部をネット中継なんてありえない。
日本は、民放がすごく発達していることからくる権利の複雑さが、最も大きな理由だろう。
こういうところにも、日本とフランスの国家と社会のあり方の違いを感じるが、今回はそういう硬い話は抜き。
ところでいつも思うのだけど、日本って、日本の選手がすべりおわると、まだ息も切れていないのにすぐにインタビューをとるわよね。あれって他の国も同じなんだろうか。
それと演技のあと、どの国の選手もみんな、自国メディアばかりに答えているのかしら。メダルが期待される有名選手もみんなそうなの? どの国の人も? 世界のファンに向けての発信はなし? (メダルをとったメダリストは別です。メダルが確定する前の話)。
フランスってどうだったかな。そもそも「演技直後のインタビュー」という発想がないような。もっと落ち着いてから話を聞いているのはよく見る(最近はネット生中継ばかり見ているので、確かじゃないけど)。
あと「世界のファンに声を届ける」という意味では、フランス語は、英語ほどじゃないけど一応国際言語なので、フランス語がわかる記者がインタビュー場所に行けばいいだけの話だから、関係ないかも。
まあね、日本は本当にフィギュアが盛んだから・・・。
ミラノの会場も、例によって日本の広告だらけ。日本企業がなかったら、そもそも開催できないのでは、と思うくらい。
いわゆる「芸能界」的なノリで大騒ぎするのは、日本の民放テレビの文化。つまり「芸能界」「スポーツ選手も芸能人的な存在」としての消費。実に独特。
他の国にはそういうの、ほとんどないものね。少なくとも欧州にはない。もっとスポーツとして楽しんで見ている感じがする(もちろん熱狂的ファンはいるけどね)。日本の真似している韓国とか中国にはあるのかも。
やっぱり「民放テレビ」「社会が個人主義か否か」というのが、ポイントかなと思う。
そういうふうに芸能界っぽく盛り上がるのは、悪いことだとは思っていない。楽しめるし、いいんじゃないかしら。いろいろな楽しみ方があっていいと思うし、こういう世界があるからこそ、引退した選手もアイスショーを続けられたり、芸能活動で生活の糧を得ることもできる。
ただ・・・本来はアマチュアスポーツなのに、巨額のお金が動くわけで、そういうしがらみで選手が苦しめられることはないのだろうか。ちゃんとアマチュアスポーツの一線は引かれているのだろうか。
もっともお金のかかるアマチュアスポーツは、企業の援助がないと続けられない。「地元の選手を純粋に応援したい。口は出しません」というような、ものすごく幸せなスポンサーがつくケースは例外じゃないだろうか(あと、出版界にいた私の狭い経験で言えば、航空会社はかなりラクで制約が少なく、かつ便宜は多いありがたいスポンサー。羽生さんにANAがついているのは、そういう意味で羽生さんのために本当によかったのではないかと感じじる)。
でもそういうのは例外。民放テレビで芸能界的に盛り上がって宣伝効果が期待できるからお金を出すわけで・・・。そういうお金があればこそ、アマチュア選手が強くなることもできる。そうすれば国のメダル数が増える、となる。
でもね、「日の丸を背負って」って、どうなんだろ・・・。
この表現や、このプレッシャーをフランス人が知ったら「極右みたい(笑)」というかもしれない。逆に極左や独裁国家的、とも言える(国のメダルのためにドーピングをやっているソ連ーロシアみたいな国のこと)。
そりゃ、どこの国の人だって、自分の国の選手がメダルをとれば嬉しいよ。地元で祝勝パレードをする場合もあるでしょう。「日の丸を背負って」って、表現はソフトになっているけど、結局「国のために戦う」「国のためにメダルをとらねば」ってことでしょう? そんな発想、西欧とか北米みたいな先進国にあるかな??? 私はないと思う。
(厳密に言えば、スポーツによって違うでしょう。あとオリンピックは夏のほうがそういうプレッシャーが強そう)。
それと「楽しんで」「楽しみたい」ってすぐに言うよね。
あれはきっと、昔はもっと「お国のために!」「必死でやれ!」みたいな感じが強かったみたいだから、対抗として現れた文化というか発想なのだと思う。「お国のために」とは言わずに「日の丸を背負って」という婉曲表現になったのも、そういう時代の流れなのだろう。
でもね、猫も杓子も「楽しんで」って、何よ・・・と私は思う。
もっと自分の表現はないのか。
別に、「独特の個性的表現をしろ」と言っているのではない。
なんかこう、社会に言わされている感が、私は気に入らない。
こういうふうに言っておけば無難だろう、叩かれない、というのはあるのだろう。
それだけ日本は、スポーツ選手が芸能化という消費社会にどっぷり入り込んでしまっているので、何かあるとすごい勢いで集団で叩かれるので、こうなるのかもしれない。
もともと「日の丸を背負って」という発想があるほど、集団主義が強い国だし。
私はそういう、社会も個人も右にならえ、というのが好きじゃないのだ。
はっきり言うと、嫌いである。
でも、オリンピックに出るような選手はみんな10代とか20代前半が多くて若いから、社会の風潮に従って、なんとなくそんなふうに言ってしまうのは仕方ないとは思うのだけどね・・・。
私は芸能界が好きじゃないので、よけいに好きなスポーツの芸能化は考えてしまうのかも。
芸能人が集まって騒いでいる番組にはまったく興味がないので。
「ヴァイオリンのためのソナチネ」がソチで使用されるということで、新垣隆氏がカミングアウトした、あの佐村河内守の騒動のとき、佐村河内を擁護するどころか「ゴーストライターは引っ込んでろ!出てくるな!ずうずうしい」みたいな感じの芸能人が多いのには本当にヘドが出た(汚い表現ですみません。私がこんな汚い表現使うのはものすごく珍しいです)。
みんないかに、ゴーストライターを使っているのかが見え見えになった。
使うなら使うで堂々としてればいいのに。
佐村河内もそうだったが、彼はプロデューサーとして名乗っていれば、なんの問題もなかった。
芸能人だって同じ。ゴーストライターが書いたシナリオどおりにしゃべっているのだとしても、作詞作曲と歌手が別の人でも普通なように、堂々としていればいい。
そこにあるのは「自分が目立ちたい」「自分の才能だと思われたい」という曲がった欲。
ああ、嫌だ、嫌だ。
ふなっしーが流行って、ふなっしーに「いくらもうかっているか」と聞く芸能人も山ほどいた。視聴者は純粋にふなっしーを愛していたのに、あれも芸能人の品性を見る思いで嫌悪感がわいた。カネと嫉妬。
ああ、もう本当に嫌だ。
でも「マツコの知らない世界」「お宝鑑定団」みたいな番組は大好き。最近では「池の水を抜く」とかね(笑)。あのワニガメは元気にしているかな。故郷から無理やり引き離されて日本に連れてこられて、気の毒に・・・。
例によって話がそれました。
フィリップ・キャンデロロは、こんな風にたまにテレビに出ていますが、他の国の引退した選手たちはどうしているのかな。
今日はこのへんで。
ついしん1: あのキス&クライの背景の絵。確かに美しい。ドゥオーモなのはわかる。座るとちょうどイスみたいに白い尖塔のところがくるのも、デザイン的に考えていると思う。でも、真正面にまるで十字架=宗教に見えるようなものが来るって、どうよ。もちろん、「あれは建築デザインです。宗教じゃないです」と文句はつけにくい線でつくってあるのはわかる。うーんイタリアだわー。フランスだと、ないかもしれない。
メダル授賞式の女性たちの服装もすごかった。美しい。ルネッサンス風衣装と現代風衣装(白)の女性に分かれていた。6人全員衣装が違った。さすがデザイン大国。でも、はりきりすぎでは・・・(笑)。
ついしん2:他に書く機会がなさそうなので書いてしまう。私は「オリンピックという売買春問題」というテーマには関心をもっている。それは女性の平等と保護と権利に強い関心をもっているからだ。(世界「男女平等ランキング2017」で調査対象144カ国中、111位というサイテーの日本でこういうこと言っても、嫌がられるだけだけどさー)。だからソチでの東ヨーロッパから来た女性の売春問題は結構知っている。売春が組織化されていて(マフィア)、貧しさから身を売る東欧の女性たちの問題だった。
平昌ではどうだったのだろう。語られていたのは、北朝鮮の美女軍団ばっかり。日本のメディアはメダルの数は気にしても、こういうことは何も語らない。さすが男女平等最低ランクの国だけのことはある。
生々しい話だが、極度の緊張をせまられるアスリートには、心身のバランスのために、セックス・性欲処理を必要とする男性がいるのだ。戦争で、占領したばかりの地で兵士による集団レイプが起こるのも、同じ理屈だ。
選手村に、避妊具が置かれていることもある。女性にも性欲があって、選手同士で一夜の関係をもったりするらしいが、それは売買春の問題ではないので、あまり関心がない。
どちらにせよ日本選手は関係ない・・・のかな。だって、ママと一緒にやってきて、ママの手作り料理を食べているらしいから。なんだかなー・・・。
アマチュアだから仕方ないかもしれないし、それで体調管理が万全になれるのなら、今までの成果を出し切れるのなら、それもアリなのかもしれない。仕方ないね、好きにして、ということにしよう。
でも、ママの付き添いは「お母さん、頑張っているんですねー!」って美談で語る話なのか?? もう成人した男なのに。そんな選手、他の国にいるのだろうか。
まあ・・・みんなただでさえ若い上に、小さい頃からそのスポーツ一筋でやってきているから、世間知らずなのだろう。マフィアも、そういうアスリートの若さと世間知らずに付け込んでいるのかもしれない。
ああ、なんだか袋叩きにあいそうなことを書いてしまった。でも、日本人はオリンピックの時は特に、二言目には「努力」「目標に向かって」と耳にタコができるほど言いたがるが、目標に向かって努力しているのなら、他の環境はどうでもいいのか、と私は思ったりするのです。
私がそう思うのは、留学生と会うことが日常茶飯事で、今までたくさんの留学生に出会ってきた環境にいるからだと思う。
外国生活で悩みをもつ人は多い。うまく交流できなかったり、言葉が話せなかったり、なじめなかったりで、日本人だけで固まるとか、ウツになることも。
でも大人はみんないう。「いろいろなことを積極的にやりなさい。積極的に現地の人との交流に参加しなさい。自分の殻に閉じこもっていてはいけません。失敗してもいい。若い時のそういう体験はとても大切なことです」と。私もそう思う。
選手を「日の丸を背負っている」「メダルという目標に向かって努力する素晴らしい人」と見て特別扱いして、選手の一人の人間としての自由と自立の問題に目をつぶるのはいかがなものだろうか。
ハビエル・フェルナンデスは、カナダという外国で自立して生活しているが、それでも立派にオリンピックで銅メダルをとり、世界選手権で2度もチャンピオンになっている。「可愛い子には旅をさせろ」である。でも、彼は特別なのではない。欧米では、成人すればこうやって自立するのが当たり前なのだ。彼は当たり前のことをしているにすぎない。どうしても、日本の社会の特殊性を考えずにはいられない。周りが助けるのはいいが、やっぱりママがオリンピックにまでついてきて、あれこれ世話をやくのを美談で語るのはいかがなものかと思う。
選手は言うかもしれない。「私が金メダルを取りたいんです。そのために母が協力してくれるのに、何がいけないのですか」と。そうしたら私は、選手の純粋培養ぶりに、うなだれて涙ぐんでしまうかもしれない。
日本の選手のみなさんは、本当に受け答えも優等生で、謙虚で立派な人が多い。家族の教育が行き届いているのかもしれない。だから一面を見て批判するのは行き過ぎかもしれないとは、自分で批判しておきながら思う。
それに、あんな日本の芸能界やメディアであっても、スポーツのアマチュア選手に対しては、それなりの、多少の自制のようなものが働いている部分があるのは認める。
そういう部分と、選手はみんな「とっても良い子」という事実で、人々は安心して見ていられるという側面はあり、だから教育的に推奨もできて、幅広いファンもつくというのは否定しない。
でも、なんというか・・・私は哀れさを感じることがよくある。「良い子」すぎて。「良い子」を強制されているというか。もっと自由でもいいじゃないか。才能があるなら、なおさらだ。
ただそれには自立がセットでならなくてはならない。もう子供じゃないんだから。才能があろうとなかろうと、大人はみな同じ。
才能があって高みにいる人しか見えない光景があるはずだ。
「みなさんのおかげで・・・」はわかった。感謝の意はもう十分伝わった。
凡人にはわからない、オリンピックや世界選手権レベルの人ならではの経験や感じたことがあるはずでしょう? それが「うぬぼれ」「偉そう」「上から目線」に聞こえる内容であっても、私はそれが聞きたいし、知りたい。
若くて才能があって有名で舞い上がると、たくさん変なことをするかもしれない。でもいいじゃないか。私は、若い選手が変なことや愚かなことをしても、苦笑はしても叩かないよ。人権侵害に関わる差別的な内容ではない限りはね。微笑ましいし、そのほうが多様性があって面白いと思う。
いつも保護者付きの「たいへん良い子」と、自立していて「自由に言動する子」では、日本社会では、アマチュア選手だと前者でないと受け入れてもらえない。「日の丸」とか「チーム日本」という名前の責任を背負わされるから、良い子じゃないと困るからね。それに、ちょっとでも偉そうなことを言おうものなら、集団で叩かれてしまう。だから、一人の人間としての自立なんてどうでもいいの、大の大人にいつもママがくっついていても「良い子」なほうがいいの、多様性なんかなくてもいいの、だからお国のためにメダルをとってきてちょうだいーーというのは言い過ぎか。
日本どっぷりの日本人にいってもわかってもらえないかもしれない。渦中にいる人は気付かないから。何かの枠にはめられると、はめられていることも気づかないし、枠にはめられたことしか考えられなくなってしまう。多様性のとても少ない日本社会。まあ・・・スポーツ選手だから、身体表現や成績が一番重要なのであって、結局他はどうでもいのかもしれないけど。
はた、と手がとまり「なぜ私はこんなにムキになっているのだろう」と思う。自分でもよくわからないが、要するに私は、選手を批判したいのではなく、日本の社会を(例によって)批判したいのだと思う。動機は簡単だ。さっきも書いたように、私は日本の「良い子」の選手を見ていると、なんだかかわいそうになってくるからだ。
あんなに才能のある方々なのだから、私なんかに哀れんでもらわなくても結構、才能のある方々には彼ら独自の重荷がある、若くして大変なのだから、家族の協力が不可欠そうなのもわかっている。
でも選手は、現役時代は短く、引退してからのほうが人生は長い。
彼らはどうするのだろう。オリンピックでメダルをとった人だって、食べていくのは難しいのがアマチュア選手。スケートだとアイスショーとかあるけれど、あれだって頑張っても40歳くらいまででしょう。次から次へと新しい選手は現れ、人々の記憶は薄れ忘れっぽく、人気はうつろいやすく、スポーツ選手は体が動かなくなっていく。でも、フィギュア選手はお金持ちの家の子供が多いらしいから、関係ないのかしら。。。
アマチュアスポーツって難しいですね・・・。
またテロが起きてしまった
またフランスでテロが起きてしまった。
地方のスーパーで、いまのところ2人が死亡と聞いている。
(最初3人と噂されていたみたいだけど)
おそらく日本では、パリとかニースみたいな大観光地ではないので、それほど大ニュースにはならなくて、今後人々の記憶には残りくいのかもしれないけど・・・。
今日は朝から出かけていて、夕方に、仕事でご縁のある某政府機関で働く人に会う約束があって、その人にテロのことを聞いた。
やはり彼女もそうだし、私もそうなんだけど、「スーパー」というところがすごく心臓にぐさっとくる。
地方の町の様子は大体想像がつく。
町はどういう雰囲気で、どのように移民・移民系の人々が住んでいるか。
彼女によると、少なくともパリ地方が滞在許可証を与える外国人の数は、それほど増えているわけではないという。アラブ語話者とパキスタン人、インド人が多いという。アラブ語話者のなかでは、シリア人とスーダン人が増えているという。
うちの大学でも、夜にボランティアの人が移民の人にフランス語を教えている。
ほとんど黒人だったなあ。
もういっぱいで新規受付ができないほどだという。
そこにスーダン人の知り合いが2人通っている。
なぜ知り合いかというと、今はもうパリにいないイタリア人の友達Sが、たくさんのスーダン人と友達だったから。
彼はホームパーティーによく呼んでくれたのだが、なんせ南イタリア人のせいか、いつも直前に誘ってくる。私は、平日は学校の授業と宿題で忙しいので(睡眠4時間)、土日はできるだけ仕事のためにあけておいたので(といっても、どちらかは死んだように寝てしまうこと多々あり)、直前でも割と大丈夫。
行くと、イタリア人、私たちと同じ学科のSの恋人(今年度はコロンビアに行ってしまった)、そしてほかはなぜかスーダン人・・・イタリア人は固まってイタリア語を話していて、彼らはSの友達ではないという(1人の友達がほかの大勢を連れてきたそうだ)。そこで私は、Sか、Sの恋人か、スーダン人と話すことになり、自然と彼らと友達になった。
彼らは英語を話すので、基本の会話は英語。フランス語のレベルは人によって異なる。滞在年数も関係あるけど、やはり向学心とか性格とか、インテリ度というか、そういうのが各自違う。
話してみると、「移民」とひとまとまりに語られるけど、一人一人考えも個性もバックグラウンドも違う、「人間」なんだと思う。当たり前のことだけど・・・。
そういえばFBで、「イタリアに退去させられるスーダン人を救え」という署名活動がまわってきたことがあった。明らかに大学つながりに見えたので、私はてっきりSのつながりで、私のタイムラインに上がってきたのだと思ったが、「違う」と言われた。私のほうが彼に説明して、拡散の協力をお願いする側になった(じゃあどうして? 移民支援をやっていて、もう自分の国に帰った友達Bのつながりか??? 彼女もイタリア人だった。うちの学科は、左派のイタリア人を毎年一人はとるという決まりでもあるのか・・・? 謎だ)
問題のスーダン人だが、この「イタリアに退去させられるスーダン人を救え」というフレーズを見ただけで、大半のフランス人(ヨーロッパ人)はこの人の身に何が起こったかわかるのだ。私もすぐにわかった。
彼は地中海ルートでヨーロッパ・イタリアに入ってきた。でもシェンゲン協定で国境がないから、フランスに流れてきた。きっとこの人は、難民申請でフランスの役所にいったか、何かでひっかかったのだろう。ダブリン協定というEUの決まりで「難民申請は、到着した国でやる」という決まりがある。つまり彼は、最初の到着国、イタリアで難民申請をしなければならないのだ。
でも多くの移民は、もうすでに住んで働いている。違法労働であっても。もう生活の基盤がフランスにあるのだ。だから「追い出すなんてひどい!」という運動が起こるのだ。
私も署名したけど、その後その人がどうなったかは、わからない。
なんだか話がそれたけど。
やっとここ最近、テロが収まっていたのに・・・。
移民を守ろうとする市民が、再び活動を活発化させてきた確かな感触があったのに。
なんだか心が沈む。
日常生活は、なにごともなかったかのように進む。
でもやっぱり心のそこに澱がたまる。
ヨーロッパよ、どこにいく。
でも、冷静に考えると、なぜ移民反対=EU反対なのだろう。
国境を閉じたい欲望、自国のことだけ考えたい切望、EUはスケープゴート。
さまざまに説明はつくが、改めて「わからない」と思う。
でも「わからない」のも含めて、これが私たちの時代。
ロバート・キャパが、パリ解放を「我らの時代」と呼んだのなら、表面はごく普通に笑い、国は平和と繁栄を享受しているけど、心の底に澱がたまり、底のほうの低音部で不安の旋律が流れている、それがいまパリにいる私たちの「我らの時代」。
ところで、私は自分が書いているブログのことをほとんど人に言っていないのに、なぜか数名に作者が私と知られている(笑)。
そのうちのある友達が、「高橋大輔は、いまミラノにいて解説やっているよ」と教えてくれた。
へーそうなんだ。
至近距離にいるのね。
私も明日(もう今日だけど)は、世界選手権を見るつもり。フランスでもテレビで生中継を放映するので。
図書館行こうかと思っていたけど、家で仕事しようっと。
昌磨さんは無理をしないでほしい。これからが長いのだから。
ミラノか。ひとっ飛びの距離。
おそらく、日本人のフィギュアファンがたくさん詰めかけているのでしょうね。
普通に平和に見えるし、スケートだけじゃなくて、ショッピングや観光を楽しんでから帰国するのでしょう。
そのうちの何人がいまのイタリアの情勢を知っているのだろうか。
もうすぐ始まる新しい政権という、薄灰色の変化を、ヨーロッパの不協和音を、北部同盟の存在を。(「北部」は今年から名称から取り除かれて「同盟」になりましたが)。
知らなくてもいいけどね・・・。日本もそれどころじゃないので。
大輔さん、いろいろ頑張っているみたい。
もっと氷上にいてほしいな、とは思うのだけどね。
(ダンスとかもいいけど)。
私は日本にいないから、たとえショーに出ても観に行けないのが残念だけど(いてもチケットが入手できないらしい)、どこにいてもご活躍を応援しています。
地方のスーパーで、いまのところ2人が死亡と聞いている。
(最初3人と噂されていたみたいだけど)
おそらく日本では、パリとかニースみたいな大観光地ではないので、それほど大ニュースにはならなくて、今後人々の記憶には残りくいのかもしれないけど・・・。
今日は朝から出かけていて、夕方に、仕事でご縁のある某政府機関で働く人に会う約束があって、その人にテロのことを聞いた。
やはり彼女もそうだし、私もそうなんだけど、「スーパー」というところがすごく心臓にぐさっとくる。
地方の町の様子は大体想像がつく。
町はどういう雰囲気で、どのように移民・移民系の人々が住んでいるか。
彼女によると、少なくともパリ地方が滞在許可証を与える外国人の数は、それほど増えているわけではないという。アラブ語話者とパキスタン人、インド人が多いという。アラブ語話者のなかでは、シリア人とスーダン人が増えているという。
うちの大学でも、夜にボランティアの人が移民の人にフランス語を教えている。
ほとんど黒人だったなあ。
もういっぱいで新規受付ができないほどだという。
そこにスーダン人の知り合いが2人通っている。
なぜ知り合いかというと、今はもうパリにいないイタリア人の友達Sが、たくさんのスーダン人と友達だったから。
彼はホームパーティーによく呼んでくれたのだが、なんせ南イタリア人のせいか、いつも直前に誘ってくる。私は、平日は学校の授業と宿題で忙しいので(睡眠4時間)、土日はできるだけ仕事のためにあけておいたので(といっても、どちらかは死んだように寝てしまうこと多々あり)、直前でも割と大丈夫。
行くと、イタリア人、私たちと同じ学科のSの恋人(今年度はコロンビアに行ってしまった)、そしてほかはなぜかスーダン人・・・イタリア人は固まってイタリア語を話していて、彼らはSの友達ではないという(1人の友達がほかの大勢を連れてきたそうだ)。そこで私は、Sか、Sの恋人か、スーダン人と話すことになり、自然と彼らと友達になった。
彼らは英語を話すので、基本の会話は英語。フランス語のレベルは人によって異なる。滞在年数も関係あるけど、やはり向学心とか性格とか、インテリ度というか、そういうのが各自違う。
話してみると、「移民」とひとまとまりに語られるけど、一人一人考えも個性もバックグラウンドも違う、「人間」なんだと思う。当たり前のことだけど・・・。
そういえばFBで、「イタリアに退去させられるスーダン人を救え」という署名活動がまわってきたことがあった。明らかに大学つながりに見えたので、私はてっきりSのつながりで、私のタイムラインに上がってきたのだと思ったが、「違う」と言われた。私のほうが彼に説明して、拡散の協力をお願いする側になった(じゃあどうして? 移民支援をやっていて、もう自分の国に帰った友達Bのつながりか??? 彼女もイタリア人だった。うちの学科は、左派のイタリア人を毎年一人はとるという決まりでもあるのか・・・? 謎だ)
問題のスーダン人だが、この「イタリアに退去させられるスーダン人を救え」というフレーズを見ただけで、大半のフランス人(ヨーロッパ人)はこの人の身に何が起こったかわかるのだ。私もすぐにわかった。
彼は地中海ルートでヨーロッパ・イタリアに入ってきた。でもシェンゲン協定で国境がないから、フランスに流れてきた。きっとこの人は、難民申請でフランスの役所にいったか、何かでひっかかったのだろう。ダブリン協定というEUの決まりで「難民申請は、到着した国でやる」という決まりがある。つまり彼は、最初の到着国、イタリアで難民申請をしなければならないのだ。
でも多くの移民は、もうすでに住んで働いている。違法労働であっても。もう生活の基盤がフランスにあるのだ。だから「追い出すなんてひどい!」という運動が起こるのだ。
私も署名したけど、その後その人がどうなったかは、わからない。
なんだか話がそれたけど。
やっとここ最近、テロが収まっていたのに・・・。
移民を守ろうとする市民が、再び活動を活発化させてきた確かな感触があったのに。
なんだか心が沈む。
日常生活は、なにごともなかったかのように進む。
でもやっぱり心のそこに澱がたまる。
ヨーロッパよ、どこにいく。
でも、冷静に考えると、なぜ移民反対=EU反対なのだろう。
国境を閉じたい欲望、自国のことだけ考えたい切望、EUはスケープゴート。
さまざまに説明はつくが、改めて「わからない」と思う。
でも「わからない」のも含めて、これが私たちの時代。
ロバート・キャパが、パリ解放を「我らの時代」と呼んだのなら、表面はごく普通に笑い、国は平和と繁栄を享受しているけど、心の底に澱がたまり、底のほうの低音部で不安の旋律が流れている、それがいまパリにいる私たちの「我らの時代」。
ところで、私は自分が書いているブログのことをほとんど人に言っていないのに、なぜか数名に作者が私と知られている(笑)。
そのうちのある友達が、「高橋大輔は、いまミラノにいて解説やっているよ」と教えてくれた。
へーそうなんだ。
至近距離にいるのね。
私も明日(もう今日だけど)は、世界選手権を見るつもり。フランスでもテレビで生中継を放映するので。
図書館行こうかと思っていたけど、家で仕事しようっと。
昌磨さんは無理をしないでほしい。これからが長いのだから。
ミラノか。ひとっ飛びの距離。
おそらく、日本人のフィギュアファンがたくさん詰めかけているのでしょうね。
普通に平和に見えるし、スケートだけじゃなくて、ショッピングや観光を楽しんでから帰国するのでしょう。
そのうちの何人がいまのイタリアの情勢を知っているのだろうか。
もうすぐ始まる新しい政権という、薄灰色の変化を、ヨーロッパの不協和音を、北部同盟の存在を。(「北部」は今年から名称から取り除かれて「同盟」になりましたが)。
知らなくてもいいけどね・・・。日本もそれどころじゃないので。
大輔さん、いろいろ頑張っているみたい。
もっと氷上にいてほしいな、とは思うのだけどね。
(ダンスとかもいいけど)。
私は日本にいないから、たとえショーに出ても観に行けないのが残念だけど(いてもチケットが入手できないらしい)、どこにいてもご活躍を応援しています。
大輔さんを見ながら久々のつれづれ
本当にお久しぶりです。
最近思うことの雑感などをつらつらと書きます。
自分があっちふらふら、こっちふらふらで定まっていない感じがする。
どうしても翻訳のほうが安定した収入になるので、そっちを増やしたくなるのだけど。
(しかも興味がある内容なら、なおさら)。
でも、今回、ある件でひどい目にあった。
確固としたしっかりした所からの紹介なんだけど、アノンスの最初からして、仕事の内容は詳しく書かれているし、出所は信用できるのだけど、他の諸条件が全く書いておらず、なんだか変だなーと嫌な予感をもたせるものだった。
いま終わってみると、案の定、あの予感は当たった、というべきなのだろう。
間に入っていた組織が悪いというより、「確固としたしっかりした所」が悪いのだと思った。おそらく「募集を公表しないわけにいかないから、出した」という感じ。最初っから誰かを募集するつもりなんてなかったのだろう。出来レース。
こういうことはありがちなのだろうが、こっちは忙しくて、神経使うことが山積みで疲れているのに、「だったら、最初から出すな!!!」と叫びたい感じだ。カバーレター1枚書くのだって、時間がかかるのよ。しかも外国語だし。本当に頭に来る。
でも、後で冷静になって考えてみる。
「私って、翻訳家になりたかったんだっけ?」
翻訳の仕事はできるし、収入になるので、もちろん喜んでやっている。
私より言語そのものができる人はいっぱいいるけど、私は文章と専門でなんとかなっているのだと思う。
でも、本来の仕事をそっちのけにしてまでやることか?
「本来の仕事」が収入になりにくいので翻訳によってたけど、最近は「本来の仕事」も着実にステップアップし、ここで本腰を入れたらもっと収入になるはずでは、と思う。
ここで私の「本来の仕事」ってなんだっけ・・・?
と考え出す。
あああああ、こういう堂々めぐり、20代のころからやっているわ。
きっと私はこういうことを考える人間なのだろう。
考え方のクセというか・・・。
「若くて道が定まっていないから迷っている」と思ってたけど、違うんだわ、きっと。
あるいは、いい歳して、まだ若者みたいなこと考えているとも言えるけど・・・。
ぼーっと大輔さんのスケーティングを見て、「はぁぁぁぁ」と情けない自分にためいきをつくのをしばし忘れる。
やっぱりこのソチのショートプログラムは、最高だわ。他に何十何百(大げさ?)と色々な人のパフォーマンスを見てきたけど、これが一番好き。私史上で最高。この前の平昌の羽生のショートも、見事な復活に感涙したけど、大輔さんのソチと意味が違う。氷の上のアーティスト・ダンサーだわ。
(私はショートが好きなのです。フリーは長すぎ)。
前にオーストリア人のキュレーターの友達が「日本人は世界一センチメンタル」と言っていたけど、私もそう思う。
これはそのまま、日本人の論理の弱さと、物事の本質(の問題)をあいまいにする性質へとつながる。
いまの私は、いくらでもこのことを事例をあげて論理的に批判できる。特に、論理を要求するフランスに住んでいるので、論理は生きていくのに必要なものとして身についた部分もある。
でも、それはそれとして、やっぱり文化的に見た場合、日本人の叙情性は特筆するべきすぐれた感性だと思う。
私は方丈記が好きだけど、源氏物語も平家物語も好き。ああいう「哀しさ」「哀しみ」というのでしょうか。
北斗の拳みたいなことを言っていますが(苦笑)、この情緒性が大輔さんの演技にはあるのよね。
日本人好みだけど、世界の人をも魅了した。
きっと本人がそういう要素をもつ人なのだろう。
引退した彼は何をやっているのかな。
スポーツ選手は引退が早いので、大変だわ。
テレビにいっぱい出ているらしいけど。
前に友達が、サッカーの中田英寿さんがモナコに現れたと言っていた。
世界の一流のスパ・マッサージめぐりをしていたらしい。
第2の人生を楽しんでいたのかな。
でも、なんだかちょっと物悲しい感じもする
「さまよえる」というか。
マーラーの曲「さすらう若者の歌 」みたい(映画に使われたピアノバージョンがあって、とても美しい)。
今日行った講演会は面白かった。
ヨーロッパの安全保障の話でした。
久々に友達にも会えたし。
でも相変わらず体調はすぐれない。
最近思うことの雑感などをつらつらと書きます。
自分があっちふらふら、こっちふらふらで定まっていない感じがする。
どうしても翻訳のほうが安定した収入になるので、そっちを増やしたくなるのだけど。
(しかも興味がある内容なら、なおさら)。
でも、今回、ある件でひどい目にあった。
確固としたしっかりした所からの紹介なんだけど、アノンスの最初からして、仕事の内容は詳しく書かれているし、出所は信用できるのだけど、他の諸条件が全く書いておらず、なんだか変だなーと嫌な予感をもたせるものだった。
いま終わってみると、案の定、あの予感は当たった、というべきなのだろう。
間に入っていた組織が悪いというより、「確固としたしっかりした所」が悪いのだと思った。おそらく「募集を公表しないわけにいかないから、出した」という感じ。最初っから誰かを募集するつもりなんてなかったのだろう。出来レース。
こういうことはありがちなのだろうが、こっちは忙しくて、神経使うことが山積みで疲れているのに、「だったら、最初から出すな!!!」と叫びたい感じだ。カバーレター1枚書くのだって、時間がかかるのよ。しかも外国語だし。本当に頭に来る。
でも、後で冷静になって考えてみる。
「私って、翻訳家になりたかったんだっけ?」
翻訳の仕事はできるし、収入になるので、もちろん喜んでやっている。
私より言語そのものができる人はいっぱいいるけど、私は文章と専門でなんとかなっているのだと思う。
でも、本来の仕事をそっちのけにしてまでやることか?
「本来の仕事」が収入になりにくいので翻訳によってたけど、最近は「本来の仕事」も着実にステップアップし、ここで本腰を入れたらもっと収入になるはずでは、と思う。
ここで私の「本来の仕事」ってなんだっけ・・・?
と考え出す。
あああああ、こういう堂々めぐり、20代のころからやっているわ。
きっと私はこういうことを考える人間なのだろう。
考え方のクセというか・・・。
「若くて道が定まっていないから迷っている」と思ってたけど、違うんだわ、きっと。
あるいは、いい歳して、まだ若者みたいなこと考えているとも言えるけど・・・。
ぼーっと大輔さんのスケーティングを見て、「はぁぁぁぁ」と情けない自分にためいきをつくのをしばし忘れる。
やっぱりこのソチのショートプログラムは、最高だわ。他に何十何百(大げさ?)と色々な人のパフォーマンスを見てきたけど、これが一番好き。私史上で最高。この前の平昌の羽生のショートも、見事な復活に感涙したけど、大輔さんのソチと意味が違う。氷の上のアーティスト・ダンサーだわ。
(私はショートが好きなのです。フリーは長すぎ)。
前にオーストリア人のキュレーターの友達が「日本人は世界一センチメンタル」と言っていたけど、私もそう思う。
これはそのまま、日本人の論理の弱さと、物事の本質(の問題)をあいまいにする性質へとつながる。
いまの私は、いくらでもこのことを事例をあげて論理的に批判できる。特に、論理を要求するフランスに住んでいるので、論理は生きていくのに必要なものとして身についた部分もある。
でも、それはそれとして、やっぱり文化的に見た場合、日本人の叙情性は特筆するべきすぐれた感性だと思う。
私は方丈記が好きだけど、源氏物語も平家物語も好き。ああいう「哀しさ」「哀しみ」というのでしょうか。
北斗の拳みたいなことを言っていますが(苦笑)、この情緒性が大輔さんの演技にはあるのよね。
日本人好みだけど、世界の人をも魅了した。
きっと本人がそういう要素をもつ人なのだろう。
引退した彼は何をやっているのかな。
スポーツ選手は引退が早いので、大変だわ。
テレビにいっぱい出ているらしいけど。
前に友達が、サッカーの中田英寿さんがモナコに現れたと言っていた。
世界の一流のスパ・マッサージめぐりをしていたらしい。
第2の人生を楽しんでいたのかな。
でも、なんだかちょっと物悲しい感じもする
「さまよえる」というか。
マーラーの曲「さすらう若者の歌 」みたい(映画に使われたピアノバージョンがあって、とても美しい)。
今日行った講演会は面白かった。
ヨーロッパの安全保障の話でした。
久々に友達にも会えたし。
でも相変わらず体調はすぐれない。
民進党にびっくり
いやー。
民進党ってなくなっちゃったんですね。
どうも日本にいないと、現場の空気感がわからないのですが。
しかしだねえ。
民進党が軸がなく、中で右と左に分かれているのは知っていたよ。
前原氏が党首になったことで、離党する党員が増えていくことも、わかるよ。
力はどんどん弱くなっていくこともわかるよ。
でもね、なんで解党するかね??
なぜ希望に身売りするかね?????
曲がりなりにも、合流した無所属の人も合わせると、87議席もっていたでしょう?
最近かなり「???!!」とはいえ、連合など、組織のバックもあるでしょう?
選挙を戦える全国に根ざした組織ももっていたでしょう?
それらは全部、小池新党のもっていないものじゃないの。
小池さんは東京都や近辺では人気があるし、新しい風に人が期待するのはわかるけど、衆議院って全国だよ?
大阪維新の会が、結局全国では伸び悩んだのと同じじゃないんですかね。
今までさんざん新しい党が出てきて、一世を風靡しては沈んでいったでしょう?
前原さん、あなた私よりもずっと年上なんだし、政治家なんだから、私よりもずっと詳しいでしょう?
希望と「共闘」するならわかるよ。
なんで希望に吸収合併されないといけないわけ?
選挙を戦って、民進党が惨敗して、希望があと一息で自民に追いつかない結果になったら「自民党に対抗するために、希望に吸収合併してもらうことにしました」ならまだわかるけど。
なにやってんの?
あー、なんだか相当な裏がありそうだな。
どうしてこうなったんですか。
マスコミがちゃんと探ってくれないとわかりません。
でも、なんとなく、構図だけはフランスとちょっと似ている。
自民=共和党
民進=社会党
希望=共和国前進
みたいな感じ。
まあ・・・自民=共和党はともかく、民進と社会党じゃ違いすぎるけど、崩壊という1点では似ている。
希望は、共和国前進ほど理念も覚悟もないけど、いきなり「まんなか」を狙って出てきた点は似ている。
枝野氏が新党をつくったのは、アモン氏のM1717と似ていると言えないこともない。
もっとも、日本にはメランションの左翼党がいない。
私は理念がちゃんとあってわかりやすいのが好きなので、そういう意味ではフランスの政党は全部わりと好き(支持か否かは別として)。日本ではわかりやすい政党がとっても少ない。希望の党も、理念があるのかないのか、よくわからず(日本の新党は、今まで全部こんな感じだったけど)。
希望の党は、新しさに人々が注目すれば(消費税にも反対しているしね)票はかなり集まるし、もともと東京都だし全国に力及ばずなら、そうでもないだろうし。こういう理念があるようなないようなたぐいの政党は今までも出てきては沈んでいったので、今の段階では、今後を拝見、という気持ち。
ただ、この国際情勢が緊迫しているときに、政権がかわらないほうがいいのでは、という気持ちはある。あと自民党の国際戦略は私はかなり評価している。もっとも、どの党になっても、この点は変わらず同じかも、という感じはするんだけど。
でも私はかなーーーーり不安ですよ。
実際は死に体だったかもしれないけど、一応民進党は、今は亡き社会党の流れをくむ左派だったはずでしょう? 解党となると、本当に左派政党が日本から消滅しちゃうじゃないの。
その点フランスも似ているところがあるけど、フランスには一応左翼党があるしね。
そういう意味で、今度の選挙戦で注目するのは、立憲民主党がどこまで頑張るか、かな。政党名もわかりやすいし、理念は一応ある。枝野氏への批判はおいといて、私は「改憲には反対ではないが、今のままでは反対。安倍政権がやるのは反対」なので、この党の方針とは結構近い。(社民党と合併しないのかな?)
一応「左派」といえる人たちが日本にもまだいたのは、心強い。
このまま自民一党体制では、どんどん腐敗していってしまうから。
ちゃんとした左派の対抗軸がないと。
それにしてもなぜここまで、日本の左派は衰退したんでしょうね。
国外投票で清き1票を、がんばりますかね。
追記:あー、どうやら小沢氏のようですね。
あの人、なんでそんなに影響力があるのかしら。田中角栄から引き継いだ金脈をもっているという話も読んだことがあるけれど、お金の力なんでしょうか。
確かに彼の二大政党に対する思いの話は聞くけれど・・・。
でもあの人って私は「政治屋」のイメージをもっている。信用ができない人物というのかしら。
よく「影の実力者」「影で歴史をつくっているのはあの男」みたいな話は、日本に限らずアメリカあたりでも出てくるけれど、最近「影の人物って、しょせん影なのでは」と思うようになってきた。「表に出ない」というと聞こえはいいけれど、表に出て戦えるだけの器のない人物なんじゃ、と。
元首相が裏で力を握っているというケースはわかりますがね。院政の変形。彼なんて、そういうわけでもないのに。よくわかんないわ。
経済界の人物ならわかりますよ。自分の経済界での目的を達するために、政治家を影で利用する。一種のロビーイング。もともと経済人であって、政治家じゃないんだから、それは有りでしょう。
それと政治界の「影の大物」がもしいるならば、政権党の背後じゃないと無理なんじゃないの。
弱い野党の裏でぐちゃぐちゃやっていてもねえ。
どのみち、小沢氏も相当お年のようですが・・・。
彼の党も迷走してるし、党員の数も少ないし。
彼のことはともかくとして。
前田氏が共産党と組みたくなかったという理屈はわかりますが、それと希望に吸収されるのと、どう関係があるんでしょうねえ。
本当に、なんでぽっと出たばかりの政党に、民進党が身売りするのか、全然わからないわ。要は、党首自ら、自分の党を見限ったということですかね? へんなのー。じゃあ、党首になんて最所からならなきゃいいのに。
民進党を支えて支持してきた人たちは、怒り心頭なのかしら。
で、支持してきた連合などの団体はどうするんでしょう。
民進党ってなくなっちゃったんですね。
どうも日本にいないと、現場の空気感がわからないのですが。
しかしだねえ。
民進党が軸がなく、中で右と左に分かれているのは知っていたよ。
前原氏が党首になったことで、離党する党員が増えていくことも、わかるよ。
力はどんどん弱くなっていくこともわかるよ。
でもね、なんで解党するかね??
なぜ希望に身売りするかね?????
曲がりなりにも、合流した無所属の人も合わせると、87議席もっていたでしょう?
最近かなり「???!!」とはいえ、連合など、組織のバックもあるでしょう?
選挙を戦える全国に根ざした組織ももっていたでしょう?
それらは全部、小池新党のもっていないものじゃないの。
小池さんは東京都や近辺では人気があるし、新しい風に人が期待するのはわかるけど、衆議院って全国だよ?
大阪維新の会が、結局全国では伸び悩んだのと同じじゃないんですかね。
今までさんざん新しい党が出てきて、一世を風靡しては沈んでいったでしょう?
前原さん、あなた私よりもずっと年上なんだし、政治家なんだから、私よりもずっと詳しいでしょう?
希望と「共闘」するならわかるよ。
なんで希望に吸収合併されないといけないわけ?
選挙を戦って、民進党が惨敗して、希望があと一息で自民に追いつかない結果になったら「自民党に対抗するために、希望に吸収合併してもらうことにしました」ならまだわかるけど。
なにやってんの?
あー、なんだか相当な裏がありそうだな。
どうしてこうなったんですか。
マスコミがちゃんと探ってくれないとわかりません。
でも、なんとなく、構図だけはフランスとちょっと似ている。
自民=共和党
民進=社会党
希望=共和国前進
みたいな感じ。
まあ・・・自民=共和党はともかく、民進と社会党じゃ違いすぎるけど、崩壊という1点では似ている。
希望は、共和国前進ほど理念も覚悟もないけど、いきなり「まんなか」を狙って出てきた点は似ている。
枝野氏が新党をつくったのは、アモン氏のM1717と似ていると言えないこともない。
もっとも、日本にはメランションの左翼党がいない。
私は理念がちゃんとあってわかりやすいのが好きなので、そういう意味ではフランスの政党は全部わりと好き(支持か否かは別として)。日本ではわかりやすい政党がとっても少ない。希望の党も、理念があるのかないのか、よくわからず(日本の新党は、今まで全部こんな感じだったけど)。
希望の党は、新しさに人々が注目すれば(消費税にも反対しているしね)票はかなり集まるし、もともと東京都だし全国に力及ばずなら、そうでもないだろうし。こういう理念があるようなないようなたぐいの政党は今までも出てきては沈んでいったので、今の段階では、今後を拝見、という気持ち。
ただ、この国際情勢が緊迫しているときに、政権がかわらないほうがいいのでは、という気持ちはある。あと自民党の国際戦略は私はかなり評価している。もっとも、どの党になっても、この点は変わらず同じかも、という感じはするんだけど。
でも私はかなーーーーり不安ですよ。
実際は死に体だったかもしれないけど、一応民進党は、今は亡き社会党の流れをくむ左派だったはずでしょう? 解党となると、本当に左派政党が日本から消滅しちゃうじゃないの。
その点フランスも似ているところがあるけど、フランスには一応左翼党があるしね。
そういう意味で、今度の選挙戦で注目するのは、立憲民主党がどこまで頑張るか、かな。政党名もわかりやすいし、理念は一応ある。枝野氏への批判はおいといて、私は「改憲には反対ではないが、今のままでは反対。安倍政権がやるのは反対」なので、この党の方針とは結構近い。(社民党と合併しないのかな?)
一応「左派」といえる人たちが日本にもまだいたのは、心強い。
このまま自民一党体制では、どんどん腐敗していってしまうから。
ちゃんとした左派の対抗軸がないと。
それにしてもなぜここまで、日本の左派は衰退したんでしょうね。
国外投票で清き1票を、がんばりますかね。
追記:あー、どうやら小沢氏のようですね。
あの人、なんでそんなに影響力があるのかしら。田中角栄から引き継いだ金脈をもっているという話も読んだことがあるけれど、お金の力なんでしょうか。
確かに彼の二大政党に対する思いの話は聞くけれど・・・。
でもあの人って私は「政治屋」のイメージをもっている。信用ができない人物というのかしら。
よく「影の実力者」「影で歴史をつくっているのはあの男」みたいな話は、日本に限らずアメリカあたりでも出てくるけれど、最近「影の人物って、しょせん影なのでは」と思うようになってきた。「表に出ない」というと聞こえはいいけれど、表に出て戦えるだけの器のない人物なんじゃ、と。
元首相が裏で力を握っているというケースはわかりますがね。院政の変形。彼なんて、そういうわけでもないのに。よくわかんないわ。
経済界の人物ならわかりますよ。自分の経済界での目的を達するために、政治家を影で利用する。一種のロビーイング。もともと経済人であって、政治家じゃないんだから、それは有りでしょう。
それと政治界の「影の大物」がもしいるならば、政権党の背後じゃないと無理なんじゃないの。
弱い野党の裏でぐちゃぐちゃやっていてもねえ。
どのみち、小沢氏も相当お年のようですが・・・。
彼の党も迷走してるし、党員の数も少ないし。
彼のことはともかくとして。
前田氏が共産党と組みたくなかったという理屈はわかりますが、それと希望に吸収されるのと、どう関係があるんでしょうねえ。
本当に、なんでぽっと出たばかりの政党に、民進党が身売りするのか、全然わからないわ。要は、党首自ら、自分の党を見限ったということですかね? へんなのー。じゃあ、党首になんて最所からならなきゃいいのに。
民進党を支えて支持してきた人たちは、怒り心頭なのかしら。
で、支持してきた連合などの団体はどうするんでしょう。
あしたのジョー
全然パリとも欧州とも関係なくてすみません。
実は私は昔から漫画のあしたのジョーが好きでして。
昔、新宿区に住んでいたことがあるのですが、一昔前のいかにも喫茶店という所に入りました。時間をつぶさないといけなかったのですが、界隈にその1件しかなかったのです。中にジョーtが置いてあった。名前は有名で知っていたので読み出したら、もうとまらない。次回はわざわざ早めにいって、完読したのでした。
テレビアニメを見たのはもっとかなり後、ネットで見ました。
今回改めて見てみて、またほれなおしました。
不定期的に「ジョー大好きモード」が襲ってくる(苦笑)。
今回見て気づいたことは、「これってまさに日本だ」ということでした。
ジョーって、本人も言うように、初期のうちはクロスカウンター一本槍の「バカの一つ覚え」だったんです。ノーガード戦法といって、うでをだらりんと下げて、打ちまくられる。でも、相手が隙をみせるから、それを狙ってクロスカウンターにもっていくという戦法です。
あんなみすぼらしいジムで、パートナーは唯一マンモス西だけ。彼すらも途中退場。
世界ランカーを狙うようになって、明らかにジョーが師である丹下氏を乗り越える。丹下氏が役に立たなくなって、たった一人。練習相手も、一緒に戦略を立ててくれる人もいない。ビデオを見て敵を研究できる環境にすらない。医者もいない。でもひたすらがむしゃらに頑張り、パンチドランカーになっても突っ走る。
戦中の日本にそっくりじゃありませんか。
日本はあの戦争で、大して戦略もなく防備も弱く兵站もまったく考えず進軍し、当然兵は死にまくるが、起死回生の手段とばかり、バカのひとつ覚えみたいに特攻をする。
あらゆる物は不足しているけど、精神力だけで突っ走ることを要求される。
ネットで「なぜジョーは最後に負けないといけないのか」という議論があったけど、負けないといけないのよ。だって戦中日本の化身なんだもの。それでもKO負けじゃなくて、判定負けというところがプライドなのでしょう。
そこまで原作者の梶原一騎が考えて描いたたとは思えないけど、あの人は戦後昭和の塊みたいな人だったようなので、時代的にそういう「美学」が骨身にしみていたのかもしれない。
あともうひとつ気づいたこと。
北斗の拳にそっくり。
北斗の拳がジョー似ているんだよね。
「友との戦いで哀しみを背負って強くなる」というところ。
北斗の拳もかなり行き当たりばったりで考えていた感じはする。
最初から「友との戦いで云々」というテーマで描いていたわけではなく、最初は単に北斗神拳と南斗聖拳の面白さを描いていただけという感じもする。そういう意味では、次から次へと変な物(?)が出てくる、同じ梶原作品の「巨人の星」に似ているかも。そう考えると、星飛雄馬の性格が、父親に従順という以外にまったく思い出せないのと同じで、ケンシロウもキャラの薄い主人公だった。星飛雄馬の父親と兄のラオウのほうが断然強烈なのも似ている。
ということは、原作者の武論尊は「北斗の拳」で、最初は巨人の星を描いていて、最後はあしたのジョーみたいになってしまったと言えないこともない(苦笑)。
でもジョーがああいう素晴らしい人間ドラマになったのは、ちばてつやのおかげらしい。
梶原氏も、「ジョーはちばてつやの作品だ」と言っていたという。
実際私は、梶原作品の巨人の星も空手なんとかも、まったく興味がない。
ただ、「階級闘争的恋愛」(すごい命名)は梶原のテーマらしく、そういう意味で「愛と誠」という漫画は読んでみたい気はする。
あしたのジョーは、外国でも受け入れられやすい内容だと思うけどな。
そういえば、北斗の拳で私が好きだったのは風のジュウザだった。
今気づいたけど、ジョーに似てるな(苦笑)。
それにしても、テレビアニメのあしたのジョー2になると、ジョーと力石が出てくるところが変に気持ち悪いと思う時がある。あるコメンテーターが「やおいの原点は、あしたのジョー2だ」と言っていたけど、納得。あしたのジョー2が本当に原点かどうかはどうでもいいのだけど、男の世界から、汗とか乱暴さとか粗雑さとか血とか臭さとか、そういう表現が失われると、やおいになるわけかと妙に解説に関心してしまった。私はなぜあれほどやおいが流行るのかよくわからなくて、恋愛は興味があるけど男女の生々しさに耐えられなくなった女性が出現したからかと思っていて、それは外れていないんだろうけど、発生の起源という意味で今回初めて理解できた。
汗とかゲロまできらきら光っていて、射し入る陽光も始終入ってきていて、はっきりいってやりすぎ。あしたのジョー1が途中で終わってしまっているのが、重ね重ね残念だ。あれで最後まで見たかった。特に、あの戦後昭和の香りが濃厚な、虫プロ制作の1で描かれたキムと朝鮮戦争の描写が見てみたかった。本当に残念・・・。
あと、ジョーが世界チャンピオンに挑戦したころは、正確にはサチは高校生になっていてもおかしくなかったはず。あの二人をくっつけたかったなー、と思うのでした。でも梶原ワールド的には、廃人になった(?)ジョーと葉子の絵で終わるはずらしかったので、絶対にありえなかったでしょうね。
さらに梶原氏は、「お前は試合には負けたけど、ケンカに勝ったんだ」という丹下氏に言わせたかったらしく、それはさすがにナシだろうと思うけど、廃人のジョーと葉子の二人というのは、それはそれでシュールな「階級闘争的恋愛」の完結で、私は悪くなかったと思うのだけど。
ところで・・・丹下段平を見て「ああ、丹下左膳」とわかる人は、いったい今の時代、どのくらいいるんだろうなー。私の世代で既にほぼゼロだったけど、私が若かったころは、少なくともわかる人は世の中にはいた。お年寄りとか映画好きとか。今なんて・・・ほんといないかもな。ジョーの中には講談調のセリフとか、日本の伝統につながる要素がまだ入っているけど、今なんて皆無でしょうね。
ヨーロッパ化している私がいうのもすごーく変かもしれないけど、私は昔の邦画を心から愛していたので。今から思うと私は、まだなんとか残っていた名画館(銀座の並木座、池袋の文芸座など)で、映画が映画だった時代の邦画を大スクリーンで思う存分学生時代に見ることができた、最後の世代だったのかもしれないな。。。
実は私は昔から漫画のあしたのジョーが好きでして。
昔、新宿区に住んでいたことがあるのですが、一昔前のいかにも喫茶店という所に入りました。時間をつぶさないといけなかったのですが、界隈にその1件しかなかったのです。中にジョーtが置いてあった。名前は有名で知っていたので読み出したら、もうとまらない。次回はわざわざ早めにいって、完読したのでした。
テレビアニメを見たのはもっとかなり後、ネットで見ました。
今回改めて見てみて、またほれなおしました。
不定期的に「ジョー大好きモード」が襲ってくる(苦笑)。
今回見て気づいたことは、「これってまさに日本だ」ということでした。
ジョーって、本人も言うように、初期のうちはクロスカウンター一本槍の「バカの一つ覚え」だったんです。ノーガード戦法といって、うでをだらりんと下げて、打ちまくられる。でも、相手が隙をみせるから、それを狙ってクロスカウンターにもっていくという戦法です。
あんなみすぼらしいジムで、パートナーは唯一マンモス西だけ。彼すらも途中退場。
世界ランカーを狙うようになって、明らかにジョーが師である丹下氏を乗り越える。丹下氏が役に立たなくなって、たった一人。練習相手も、一緒に戦略を立ててくれる人もいない。ビデオを見て敵を研究できる環境にすらない。医者もいない。でもひたすらがむしゃらに頑張り、パンチドランカーになっても突っ走る。
戦中の日本にそっくりじゃありませんか。
日本はあの戦争で、大して戦略もなく防備も弱く兵站もまったく考えず進軍し、当然兵は死にまくるが、起死回生の手段とばかり、バカのひとつ覚えみたいに特攻をする。
あらゆる物は不足しているけど、精神力だけで突っ走ることを要求される。
ネットで「なぜジョーは最後に負けないといけないのか」という議論があったけど、負けないといけないのよ。だって戦中日本の化身なんだもの。それでもKO負けじゃなくて、判定負けというところがプライドなのでしょう。
そこまで原作者の梶原一騎が考えて描いたたとは思えないけど、あの人は戦後昭和の塊みたいな人だったようなので、時代的にそういう「美学」が骨身にしみていたのかもしれない。
あともうひとつ気づいたこと。
北斗の拳にそっくり。
北斗の拳がジョー似ているんだよね。
「友との戦いで哀しみを背負って強くなる」というところ。
北斗の拳もかなり行き当たりばったりで考えていた感じはする。
最初から「友との戦いで云々」というテーマで描いていたわけではなく、最初は単に北斗神拳と南斗聖拳の面白さを描いていただけという感じもする。そういう意味では、次から次へと変な物(?)が出てくる、同じ梶原作品の「巨人の星」に似ているかも。そう考えると、星飛雄馬の性格が、父親に従順という以外にまったく思い出せないのと同じで、ケンシロウもキャラの薄い主人公だった。星飛雄馬の父親と兄のラオウのほうが断然強烈なのも似ている。
ということは、原作者の武論尊は「北斗の拳」で、最初は巨人の星を描いていて、最後はあしたのジョーみたいになってしまったと言えないこともない(苦笑)。
でもジョーがああいう素晴らしい人間ドラマになったのは、ちばてつやのおかげらしい。
梶原氏も、「ジョーはちばてつやの作品だ」と言っていたという。
実際私は、梶原作品の巨人の星も空手なんとかも、まったく興味がない。
ただ、「階級闘争的恋愛」(すごい命名)は梶原のテーマらしく、そういう意味で「愛と誠」という漫画は読んでみたい気はする。
あしたのジョーは、外国でも受け入れられやすい内容だと思うけどな。
そういえば、北斗の拳で私が好きだったのは風のジュウザだった。
今気づいたけど、ジョーに似てるな(苦笑)。
それにしても、テレビアニメのあしたのジョー2になると、ジョーと力石が出てくるところが変に気持ち悪いと思う時がある。あるコメンテーターが「やおいの原点は、あしたのジョー2だ」と言っていたけど、納得。あしたのジョー2が本当に原点かどうかはどうでもいいのだけど、男の世界から、汗とか乱暴さとか粗雑さとか血とか臭さとか、そういう表現が失われると、やおいになるわけかと妙に解説に関心してしまった。私はなぜあれほどやおいが流行るのかよくわからなくて、恋愛は興味があるけど男女の生々しさに耐えられなくなった女性が出現したからかと思っていて、それは外れていないんだろうけど、発生の起源という意味で今回初めて理解できた。
汗とかゲロまできらきら光っていて、射し入る陽光も始終入ってきていて、はっきりいってやりすぎ。あしたのジョー1が途中で終わってしまっているのが、重ね重ね残念だ。あれで最後まで見たかった。特に、あの戦後昭和の香りが濃厚な、虫プロ制作の1で描かれたキムと朝鮮戦争の描写が見てみたかった。本当に残念・・・。
あと、ジョーが世界チャンピオンに挑戦したころは、正確にはサチは高校生になっていてもおかしくなかったはず。あの二人をくっつけたかったなー、と思うのでした。でも梶原ワールド的には、廃人になった(?)ジョーと葉子の絵で終わるはずらしかったので、絶対にありえなかったでしょうね。
さらに梶原氏は、「お前は試合には負けたけど、ケンカに勝ったんだ」という丹下氏に言わせたかったらしく、それはさすがにナシだろうと思うけど、廃人のジョーと葉子の二人というのは、それはそれでシュールな「階級闘争的恋愛」の完結で、私は悪くなかったと思うのだけど。
ところで・・・丹下段平を見て「ああ、丹下左膳」とわかる人は、いったい今の時代、どのくらいいるんだろうなー。私の世代で既にほぼゼロだったけど、私が若かったころは、少なくともわかる人は世の中にはいた。お年寄りとか映画好きとか。今なんて・・・ほんといないかもな。ジョーの中には講談調のセリフとか、日本の伝統につながる要素がまだ入っているけど、今なんて皆無でしょうね。
ヨーロッパ化している私がいうのもすごーく変かもしれないけど、私は昔の邦画を心から愛していたので。今から思うと私は、まだなんとか残っていた名画館(銀座の並木座、池袋の文芸座など)で、映画が映画だった時代の邦画を大スクリーンで思う存分学生時代に見ることができた、最後の世代だったのかもしれないな。。。
今年も残りあとわずか。よいお年を。
もうすぐ新年ですね。
よいお年を。
私の来年は、すごく大事な年になりそうです。
自分との戦い、かな(笑)。
みなさんにとって、新しい年が良い1年でありますように。
よいお年を。
私の来年は、すごく大事な年になりそうです。
自分との戦い、かな(笑)。
みなさんにとって、新しい年が良い1年でありますように。
ブザンソンの事件その6
ブザンソンの事件について色々書いてきましたが、アクセス数がいきなり増えたこと、つまり検索でこのページにたどりついた人が出てきたことなどから、記事の一部を引っ込めることにしました。前にも書いたように、私は前からこのブログを読んでくれている人に向けて事件に関することを慎重に書いているつもりだったので、拡散するつもりはゼロでした。
警察は公式に「殺人」と認定しました。来週の3日火曜日に記者会見をするといってます。そして報道の様子だと、犯人の居所はもうわかっているけど、別の理由で捕まえられないのではないかという感じがします。チリとフランスには犯人引き渡し条約が締結されていません。
質問があったことについて、書きたいと思います。
遺体もみつかっていない、犯人もつかまっていないのに、殺人とするのはどういうわけか。
日本の報道では、一度も「亡くなった・死んだ」「殺された」と書かれていませんでしたが、フランスではもう23日からそのように報道されていたのです。フランス語がわかる人からは、どうしてと疑問が出ていました。それがフランスでは普通なのか、など。
フランス警察が「殺人」と公式に認定したのは28日か29日のことです。その前、事件の指揮官は、23日くらいに「4日に彼女がいなくなった。不幸なことに、もう亡くなっていると思う」としか記者たちには言っていなかったように見えます。証拠として何かをはっきり明示したわけではない。そして、記者たちが警察に取材していくうちに、色々な情報が出てきて報道されたーーということだと思います。(ただ「これは間違いなく犯罪です criminel 」とは言っていました。これを「事件です」と訳すのはどうかな・・・と思います)。
「死んだ」だけじゃなくて、「殺された」とはっきり断定して報道された。
現地入りした日本人記者を含め、フランス語を理解する日本人にはこのことがとりわけショックだったようです。
フランス人にとっても「遺体がみつかっているわけでも、犯人がつかまったわけでもないのに、なぜ殺されたと報道されるのか」という疑問は起こりました。そういうコメントがたくさんネットに出ています。
ただ、私はこのへんに、文化の違いのニュアンスを感じるのです。
前に書きましたが、フランス語の報道は、推定・推測をあらわす条件法(elle aurait)じゃなくて、事実・断定をあらわす普通の過去形 (elle a) で書かれています。日本語に訳しにくいのですが、もしこれが条件法を使って「彼女は死んだようだ」(推定・条件法)と報道されたのなら、フランス人にとってはそれほどの疑問はわきおこらなかったのではないかと思います。
それなら、「彼女は死んだ」(事実・普通の過去形)だったらどう反応したのか、、、私にはわかりかねます。
でも実際の報道は「彼女は殺されたようだ」(推定・条件法)でもなく「彼女は殺された」(事実・断定・普通の過去形)ですから、さすがにフランス人にとっても疑問がわきおこったのだと思います。
ただ、私が言いたいのは、もっと違うこと。
日本の報道では、誰もが死んだ・殺されたに決まっているとわかっている状況でも、決して「死」という言葉を口にしない。「はっきりした証拠がないなら当然だ」というかもしれません。一見、日本人は、科学的で事実を尊重して言葉を使う人たちのようですが・・・。確かに慎重さは否定しないし、一面では良いことだとは思いますが、私はなにか違うと思うんです。それは理性や客観性というよりも、「ことだま」的な文化ではないかと。フランス語なら、推定・推測を意味する条件法を使えば「死」という言葉を使っても許されるのではと思えるような場面でも、日本語では「死」という言葉そのものを忌み嫌う。
そういうメンタリティは、福島から避難してきた子供たちを「菌だ」といっていじめるのと、根が同じ文化なんじゃないか、と感じるのです。うまく説明できないのですけどね。。。自分がどうしてそう思うのかは、これから考えていきたいです。
ブザンソンに殺到した日本人記者は、フランスの現地新聞の記者に「まだはっきりした証拠がないのに、死んだとか殺人とか、言い過ぎだ、ひどすぎる」と訴えたのでしょうね。日本人に、フランス語の条件法過去形と普通の過去形のニュアンスを云々する人はほとんどいないでしょうから、「死んだ」、とりわけ「殺された」という言葉に驚いたのでしょう。無理もありません。私も驚きました。
そのせいか、現地新聞のトーンや表現は、どんどん柔らかくなっていった印象があります。
でも現地記者はそれを、「日本人による理性的で、科学的で合理的な精神による訴え」と思ったかもしれないな・・・と。私としては「そういう面だけじゃない、真逆の側面もあると思います」と言いたいわけです。
確かに今回の「殺された」という断定報道はいきすぎだったと思います。
でも、警察がクリスマスだというのに、森林や湖を犬やダイバーを使って被害者を捜索しているのにそれでも、断定しないまでも「亡くなったようだ」とすら言えない日本の慣習や報道に、なんだかちょっと疑問を感じ始めました。
あと「なぜ別の大陸とか言って、国籍をはっきり言わないのか」という質問もありました。
捜査上、明言するべきではない状況があったのかもしれません。この点は日本もフランスも同じ。
ただ、ここにもフランスと日本の違いがあると思います。
NHKの全国ニュースに相当するものを比較すると、犯人がつかまっても、アナウンサーが冒頭で「××人(××国籍)の犯人がつかまりました」というようなことは、フランスではほとんどない印象です。日本に帰って「××人の犯人がつかまりました」「犯人は××国籍の男と判明しました」とかいうニュースの冒頭を聞くと、ぎくっとしますもの。
フランスでは明かさないわけではありません。冒頭の読みのあと詳細の報道が続きますが、それを聞いていると犯人の国籍がわかるという感じです。
ただし、テロリストなどの重大犯人は、これには当てはまりません。
また、テレビの全国ニュース・ローカルニュースの別、権威のある新聞・大衆紙の別などでも変わってくると思います。
この事件で、犯人がどの国籍かを知りたいのは当然です。私も知りたかったです。事件に関心をもったフランス人もそうでしょう。ただ、日本の報道を見ていると、やっぱり「ガイジン」という意識が強いのだなあと思います。それは一つ間違えれば差別につながるものだと思うのですけどね。島国で単一民族意識が強い日本、大陸で国際色豊かでコスモポリタンなフランスでは、違うのは仕方ないのかもしれませんが。。。そもそもフランスには二重国籍者なんてたくさんいるけど、日本は法律が禁じているので、いないし。「フランス人」「フランス国籍」といったところで、他の国籍ももっているかもしれないし、本人は「私はフランス国籍はもっているけど、フランス人じゃない!」と思っているかもしれないし。
あと、テレビの報道で「容疑者の男が女子留学生の部屋を訪れていたことが分かりました。」とそれをニュースとして報道されたものがありました。テレビ朝日です。なんだかねえ・・・と思いましたよ。要するに「自分で男を部屋に引き入れてた」と言いたいのでしょう。まだ今みたいに他の状況がはっきりしていない段階で、あのような報道。偏見を助長し、女性差別がからんでいる報道の仕方だなあと、大変不愉快でした。
報道するなと言っているのではありません。実際、私がアクセスできる範囲では、他のテレビ局も同内容を報道はしていました。でも「被害者が男を部屋に入れた、それがニュースだ」として取り扱った局は、私が見られる範囲ではありませんでした。ちゃんと配慮したんじゃないですか。
現地記者なのか、東京の本部の編成でこうなったのか。どのみち東京の本部がOKしなければ、出るわけがなく。東京にいるアナウンサーが東京のスタジオで読んでいるのだし。ああいやだ、いやだ。読んでたのは女性アナだったけど、どう思ったのだろうか。
当初は犯人は、7日に欧州から出て別の大陸にいったと言われていたのに、昨日あたりから「7日か12日」と言われるようになりました。犯人の逃走ルートも、複数の異なった報道があります。
内容によっては日本の報道が混乱している部分があるのは確かですが(フランスの報道ではぶれがない部分)、警察のほうが捜査に必要なフェイクを入れている部分もあるのかもしれません。これからもっと新事実が明らかになるのでしょう。
なんだか最近は、「恋人同士の別れ話のもつれ」みたいなノリになってきますが、フランスの報道によると、当初から警察は「たいへん頭の良い人物だ」と繰り返し言っており、指揮官は犯人が他の犯罪も犯している可能性を否定していません。ネットに詳しい異常な人物であることは、記憶していてもいいかと思います。「恋人同士の別れ話のもつれ」になると、またぞろ世間の中には、「運が悪かったが、女性の側にも責任はある」みたいなことを言い出す奴が必ず出てくるでしょう。もともと日本人は被害者に冷たい国民性があるうえに、女性に大きな重荷を背負わせがちな社会です(それは結局女性の地位が低いからです)。フランスの報道を見ていて、私は「違う。そういう性質の事件じゃないと思う」と言いたいのです。来週の記者発表と続報を待ちたいと思います。
追伸:「半過去と単純過去を混同している」という指摘がありましたが、「半過去」です。間違いようがないです。だって、単純過去なんて一度も勉強したことないんだもの。活用を知っているのはETREだけ。単純過去は見ればわかるけど、書けません(苦笑)。
警察は公式に「殺人」と認定しました。来週の3日火曜日に記者会見をするといってます。そして報道の様子だと、犯人の居所はもうわかっているけど、別の理由で捕まえられないのではないかという感じがします。チリとフランスには犯人引き渡し条約が締結されていません。
質問があったことについて、書きたいと思います。
遺体もみつかっていない、犯人もつかまっていないのに、殺人とするのはどういうわけか。
日本の報道では、一度も「亡くなった・死んだ」「殺された」と書かれていませんでしたが、フランスではもう23日からそのように報道されていたのです。フランス語がわかる人からは、どうしてと疑問が出ていました。それがフランスでは普通なのか、など。
フランス警察が「殺人」と公式に認定したのは28日か29日のことです。その前、事件の指揮官は、23日くらいに「4日に彼女がいなくなった。不幸なことに、もう亡くなっていると思う」としか記者たちには言っていなかったように見えます。証拠として何かをはっきり明示したわけではない。そして、記者たちが警察に取材していくうちに、色々な情報が出てきて報道されたーーということだと思います。(ただ「これは間違いなく犯罪です criminel 」とは言っていました。これを「事件です」と訳すのはどうかな・・・と思います)。
「死んだ」だけじゃなくて、「殺された」とはっきり断定して報道された。
現地入りした日本人記者を含め、フランス語を理解する日本人にはこのことがとりわけショックだったようです。
フランス人にとっても「遺体がみつかっているわけでも、犯人がつかまったわけでもないのに、なぜ殺されたと報道されるのか」という疑問は起こりました。そういうコメントがたくさんネットに出ています。
ただ、私はこのへんに、文化の違いのニュアンスを感じるのです。
前に書きましたが、フランス語の報道は、推定・推測をあらわす条件法(elle aurait)じゃなくて、事実・断定をあらわす普通の過去形 (elle a) で書かれています。日本語に訳しにくいのですが、もしこれが条件法を使って「彼女は死んだようだ」(推定・条件法)と報道されたのなら、フランス人にとってはそれほどの疑問はわきおこらなかったのではないかと思います。
それなら、「彼女は死んだ」(事実・普通の過去形)だったらどう反応したのか、、、私にはわかりかねます。
でも実際の報道は「彼女は殺されたようだ」(推定・条件法)でもなく「彼女は殺された」(事実・断定・普通の過去形)ですから、さすがにフランス人にとっても疑問がわきおこったのだと思います。
ただ、私が言いたいのは、もっと違うこと。
日本の報道では、誰もが死んだ・殺されたに決まっているとわかっている状況でも、決して「死」という言葉を口にしない。「はっきりした証拠がないなら当然だ」というかもしれません。一見、日本人は、科学的で事実を尊重して言葉を使う人たちのようですが・・・。確かに慎重さは否定しないし、一面では良いことだとは思いますが、私はなにか違うと思うんです。それは理性や客観性というよりも、「ことだま」的な文化ではないかと。フランス語なら、推定・推測を意味する条件法を使えば「死」という言葉を使っても許されるのではと思えるような場面でも、日本語では「死」という言葉そのものを忌み嫌う。
そういうメンタリティは、福島から避難してきた子供たちを「菌だ」といっていじめるのと、根が同じ文化なんじゃないか、と感じるのです。うまく説明できないのですけどね。。。自分がどうしてそう思うのかは、これから考えていきたいです。
ブザンソンに殺到した日本人記者は、フランスの現地新聞の記者に「まだはっきりした証拠がないのに、死んだとか殺人とか、言い過ぎだ、ひどすぎる」と訴えたのでしょうね。日本人に、フランス語の条件法過去形と普通の過去形のニュアンスを云々する人はほとんどいないでしょうから、「死んだ」、とりわけ「殺された」という言葉に驚いたのでしょう。無理もありません。私も驚きました。
そのせいか、現地新聞のトーンや表現は、どんどん柔らかくなっていった印象があります。
でも現地記者はそれを、「日本人による理性的で、科学的で合理的な精神による訴え」と思ったかもしれないな・・・と。私としては「そういう面だけじゃない、真逆の側面もあると思います」と言いたいわけです。
確かに今回の「殺された」という断定報道はいきすぎだったと思います。
でも、警察がクリスマスだというのに、森林や湖を犬やダイバーを使って被害者を捜索しているのにそれでも、断定しないまでも「亡くなったようだ」とすら言えない日本の慣習や報道に、なんだかちょっと疑問を感じ始めました。
あと「なぜ別の大陸とか言って、国籍をはっきり言わないのか」という質問もありました。
捜査上、明言するべきではない状況があったのかもしれません。この点は日本もフランスも同じ。
ただ、ここにもフランスと日本の違いがあると思います。
NHKの全国ニュースに相当するものを比較すると、犯人がつかまっても、アナウンサーが冒頭で「××人(××国籍)の犯人がつかまりました」というようなことは、フランスではほとんどない印象です。日本に帰って「××人の犯人がつかまりました」「犯人は××国籍の男と判明しました」とかいうニュースの冒頭を聞くと、ぎくっとしますもの。
フランスでは明かさないわけではありません。冒頭の読みのあと詳細の報道が続きますが、それを聞いていると犯人の国籍がわかるという感じです。
ただし、テロリストなどの重大犯人は、これには当てはまりません。
また、テレビの全国ニュース・ローカルニュースの別、権威のある新聞・大衆紙の別などでも変わってくると思います。
この事件で、犯人がどの国籍かを知りたいのは当然です。私も知りたかったです。事件に関心をもったフランス人もそうでしょう。ただ、日本の報道を見ていると、やっぱり「ガイジン」という意識が強いのだなあと思います。それは一つ間違えれば差別につながるものだと思うのですけどね。島国で単一民族意識が強い日本、大陸で国際色豊かでコスモポリタンなフランスでは、違うのは仕方ないのかもしれませんが。。。そもそもフランスには二重国籍者なんてたくさんいるけど、日本は法律が禁じているので、いないし。「フランス人」「フランス国籍」といったところで、他の国籍ももっているかもしれないし、本人は「私はフランス国籍はもっているけど、フランス人じゃない!」と思っているかもしれないし。
あと、テレビの報道で「容疑者の男が女子留学生の部屋を訪れていたことが分かりました。」とそれをニュースとして報道されたものがありました。テレビ朝日です。なんだかねえ・・・と思いましたよ。要するに「自分で男を部屋に引き入れてた」と言いたいのでしょう。まだ今みたいに他の状況がはっきりしていない段階で、あのような報道。偏見を助長し、女性差別がからんでいる報道の仕方だなあと、大変不愉快でした。
報道するなと言っているのではありません。実際、私がアクセスできる範囲では、他のテレビ局も同内容を報道はしていました。でも「被害者が男を部屋に入れた、それがニュースだ」として取り扱った局は、私が見られる範囲ではありませんでした。ちゃんと配慮したんじゃないですか。
現地記者なのか、東京の本部の編成でこうなったのか。どのみち東京の本部がOKしなければ、出るわけがなく。東京にいるアナウンサーが東京のスタジオで読んでいるのだし。ああいやだ、いやだ。読んでたのは女性アナだったけど、どう思ったのだろうか。
当初は犯人は、7日に欧州から出て別の大陸にいったと言われていたのに、昨日あたりから「7日か12日」と言われるようになりました。犯人の逃走ルートも、複数の異なった報道があります。
内容によっては日本の報道が混乱している部分があるのは確かですが(フランスの報道ではぶれがない部分)、警察のほうが捜査に必要なフェイクを入れている部分もあるのかもしれません。これからもっと新事実が明らかになるのでしょう。
なんだか最近は、「恋人同士の別れ話のもつれ」みたいなノリになってきますが、フランスの報道によると、当初から警察は「たいへん頭の良い人物だ」と繰り返し言っており、指揮官は犯人が他の犯罪も犯している可能性を否定していません。ネットに詳しい異常な人物であることは、記憶していてもいいかと思います。「恋人同士の別れ話のもつれ」になると、またぞろ世間の中には、「運が悪かったが、女性の側にも責任はある」みたいなことを言い出す奴が必ず出てくるでしょう。もともと日本人は被害者に冷たい国民性があるうえに、女性に大きな重荷を背負わせがちな社会です(それは結局女性の地位が低いからです)。フランスの報道を見ていて、私は「違う。そういう性質の事件じゃないと思う」と言いたいのです。来週の記者発表と続報を待ちたいと思います。
追伸:「半過去と単純過去を混同している」という指摘がありましたが、「半過去」です。間違いようがないです。だって、単純過去なんて一度も勉強したことないんだもの。活用を知っているのはETREだけ。単純過去は見ればわかるけど、書けません(苦笑)。
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