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アイデンティティと靖国問題

バカンスも終わりモードのフランスです。

テレビのキャスターも、いつもの面子が続々戻ってきて、みんな判をおしたように日焼けしている。私のように南仏(コートダジュール)に住んでると、「今日もまたバカみたいに晴れか」「太陽がそんなに珍しいんかい!」などと思うのだけど、パリの人からみると、珍しい……んだろうなあ・・・。パリ、寒いもんね。1年中タンスにコートがかけてあるみたいな感じだものね。

さて、私はこのHPによってくださる方は、南仏・モナコやフランス発の、親しみやすい話題を求めているのかと思ってました。でも、アクセス数をみてると、すごく固い社会・政治の話題も、かなりアクセス数が多いんですよね……。
読んでくださる方の傾向が二分されているのかな。

なので、これからは意識してどちらも書くことにして、固い話しに関しては、次回から連載ものをはじめようと思います。

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今回は固めの話題です。

前にジダンのことを書きました。ジダンの関連の記事だけで、4000近くのアクセス数がありました。そのときに書き足りなかったことを、今回書こうと思います。

ワールドカップの時に日本に帰国していたこともあって、日本でのジダン関係の雑誌記事も見てみました。

そうすると、ジダンのバックグラウンドを説明した記事には、必ず「ジダンはアルジェリア人として」「アルジェリア人としての彼は」という表現が使われていました。
つまり、記事のほとんどが「自分の祖国であるアルジェリアとフランスとの板ばさみ」という調子だったのです。

彼がアルジェリア人というより、ベルベル人カビル族であり、それこそが問題の核心であることは、前に「ジダンはなぜ頭突きしたか」「ジダンの生地で頭突きを考える」で書きましたが、今回私が言いたいことは、このことではありません。

くどいですが、ジダンはフランスで生まれたフランス人です。アルジェリアで生まれたのは両親です。「フランスの一般的な感覚」と彼の少ない発言にてらして私が思うのは、
「ジダンは自分がフランス人だと思っている。アルジェリアはあくまで両親の祖国である」
ということです。

つまり、ジダンは自分がアルジェリア「系」とは思っていても、アルジェリア「人」だとは、まったく思っていないと思うのです。

それなのに、日本人は「アルジェリア人としての彼」と書く。これは、「ジダンの親はフランスの元領土の出身で、彼は2世」と聞くと、日本人は、自分が知っている例──在日朝鮮・韓国人のひとたちのケースとあてはめて考えるせいだと思います。

同じ「2世」という言葉でも、日本人のイメージと、フランスのとでは、大きく違います。ここに、日本人のジダン理解の決定的な間違いが生じる。

つまり、ひとはだれでも──日本人だけじゃありません──自分の知っていることに当てはめて物を考えることしかできないのです。

なので私は、外国に住むことがとても面白いです。自分が日本でつちかった「常識」がどんどん壊れていくから。もっともっと、「人間」を「世界」を知ることができるから。

たとえば、私は日本にいるときは、在日朝鮮・韓国人のことには興味がありませんでした。身近にそういう問題がないし、会社には在日コリアンの人がいましたが、ふつうに友達でした。(大阪には「同和教育」というものがあると知ったとき、私はひっくりかえるほど驚きました)。

でも、フランスに来て、ジダンの問題などを考えているうちに、在日朝鮮・韓国人のことをもっと知りたくなりました。

どうして彼らのことを「朝鮮系・韓国系日本人」といわれずに、朝鮮「人」・韓国「人」なのか、知りたいと思ったのです。
(フランスの地方にいるので、日本語の書籍はないです。ネットが頼りです)。

理由は簡単で、国籍が韓国や北朝鮮にあるからなのです。
じゃあなんでそうなったかというと、理由はたいへん複雑なようです。

朝鮮族の民族性の問題、朝鮮戦争で国がふたつにわかれたこと、韓国の国籍法の問題(韓国では「子どもは父親の国籍にしたがわないといけない」というもの。でもこれは、ついこの前改正されたような気が)──などなど、とにかく複雑みたいです。

ここで忘れてはならないのは、これは「朝鮮半島から日本にきた外国人」という、特定のケースにすぎないということです。この感覚をもって、他の国や他の民族の外国人問題とか、2世・3世問題も同じとらえ方で考えると、決定的な間違いが生じてしまいます。────ジダンの記事に間違いが氾濫したように。

自分の常識は、他国の非常識──私はそれくらいの気持ちでいたいなと思っています。

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私は前に書いた記事で「ジダンは自分のアイデンティティをどうもっているのか、わからない」と書きました。
でも私は、上述したように、ジダンは自分がアルジェリア人であると考えているなどとは全く思いません。カビル人であるとは思っていると考えますが……。

でも、このことは、日本人にはとてもわかりにくい。

ジダンのようなケースが日本人におこるのはまずありえなく、日本人が、日本人としての自分の存在基盤・アイデンティティを不安に思うことなど、ほとんどないでしょう。
日本は、海に囲まれている日本という国に、日本民族がすんでいる、とても幸せな環境なのです。

でも世界では、不安をもっている人はたくさんいます。不安があるほうが普通といってもいいくらいです。

「ひと」とは、それほど確かな存在ではない。自分にたいして、なにか「自分も他の人も認める基盤」がないと、不安なのです。

それらは、国によって違う、民族によって違う、宗教によって違う。同じ家庭で育っても、兄と弟では異なる場合もあります。

前に、ベトナム戦争の戦禍からのがれてフランスにやってきた兄弟の話をよんだことがあります。お父さんがフランス人で、お母さんがベトナム人のこの兄弟は、フランスに来たときはまだ小学生だった。
でもお兄さんは容姿はベトナム人なのに、性格は明るくてすっかりフランス人になってしまい、弟は容姿はフランス人なのに、性格はシャイで、いつまでもフランスになじめずベトナムを恋しがっていたのです。

アイデンティティは、まさに「ひとによって違う」のです。一人の心のなかでも、いろいろな思いに引き裂かれている場合すらある。

そして、それらのもとになっている「国」とか「民族」そのものも、不確かな存在なのです。

ジダンの出身「カビル人(族)」とは、国家をもたない人達です。同じく「アラブ人」というのも、国ではない概念です。

すべての民族が自分の国をもって、自分の国で豊かに満足に暮らしていれば、世界の紛争はほとんど存在しないし、アイデンティティの問題もおきません。

国と民族の問題というのも、私がとても興味をもっているテーマの一つですが、またの機会に書くことにするとして──

私がここで言いたいのは、世界のことを知れば知るほど、「私は日本人です」と何のうれいもうたがいもなく100パーセント胸をはって言える自分が、なんて幸せなのだろうと感じるということです。

このことは、「祖国とは何か」という記事でも書きました。

これは、日本人が日本という海で囲まれた領土にずっとすんでいて、しかも他国に占領されたことがないからです。
私はフランスに住んで、視野が広くなればなるほど、「あの帝国主義時代に、日本の独立を守ってくれた先人の方々、ほんとうにありがとう」とますます強く思います。

靖国問題で、「中国や韓国の感情をかんがえれば、行くべきではない」などとおっしゃる心優しい方々がいます。でも、そのように「心優しく考えることができる」ことそのものが、独立を常にたもっている強者だからこそもてる感情、いわば強者の余裕であることを、忘れてはいけないと思います。

私なぞは、真の知性をもって国を愛している中国人や韓国人のなかには「相手を傷つけるから=相手がかわいそうだから、靖国に行くのをやめろ」という日本人のセリフそのものが、傲慢であり侮辱であると感じている人もいるのではないかとすら思います。まだ「金が儲からなくなるから行くのをやめろ」と言われる方が、彼らのプライドは傷つかなくてすむでしょうに。

そういう態度は、たとえば大江健三郎氏にもあらわれています。

彼の文学はともかく、彼は日本の文化勲章は拒否しましたが、フランスのレジオン・ドヌール勲章は受けました。
どちらも拒否するならわかるのですけどね。。。私は「ああ、このひと、欧米コンプレックスの固まりなんだなあ……」と思いましたが、この人も「自分が日本人であることの幸せ」に気付いていない人のひとりです。

彼の行為は、どんなに世界にむかって日本を批判し否定しても、日本がなくなることは絶対になく、日本人であることを剥奪されたり、日本人が消滅したりすることも絶対にないと思えるからこそ、いや、そんなことを考えたことすらないからこそ、できることです。

国なんて、なくなります。民族も、よほど強固な自覚と団結がないとなくなります。
世界史をみてください。今では存在しない国や民族のなまえだらけです。これは歴史ではなく現在形で、いまこの世界で続いています。

例えばチェチェン問題というのが、一昔さわがれました。日本人にはまったくわかりにくい、この民族問題の名前を、ニュースで聞いて覚えている方もいるのではないかしら。

チェチェン人の多くは、戦禍からフランスに逃れてきました。フランスはチェチェン難民を受け入れ、フランス国籍を与えたからです。

知り合いにレストランやっているチェチェン人の一家がいます。息子が小さい時にフランスに避難してきました。親のフランス語はへたくそですが、息子はもうフランス人と、見かけも言葉も区別がつきません。彼はもうフランス人になりました。

このままいくと、「チェチェン人」はこの世からなくなる可能性だってあります。

こういう世界にあって、大江氏は自分のしていることが、強者の行為、強者の態度、強者の余裕、強者の文学であることの自覚はあるのでしょうか。本当に不明です。
確信犯でやっているのなら、それでいいんですけどね……。

日本は世界において強者なのです。世界が日本を弱者だと思ったことは一度もないのではないかと思います。いまもむかしも。

他国から見た日本と、日本からみた日本の決定的なズレが、さまざまな問題の根底にあるようにも思えてなりません。

そのことは、また書きたいと思います。

よだん:フランスのレジオン・ドヌール勲章は、もともと軍人に与えられていたものです。戦後、勇敢な警官や消防隊、あるいは文化的に貢献した人にも与えられるようになりました。
問題は、ワールドカップでフランスチームが優勝したときに、サッカー選手にシラク大統領がこの勲章を与えた時におきました。戦争でこの勲章をもらった多くの人が抗議をして、勲章を返上する事態になりました。「私たちは国のために、命をかけて闘って得た勲章だと思っていた」ということです。
ちなみに、似たようなことは、エリザベス女王がビートルズに勲章をあたえた時もおきています。ジョン・レノンは「人を殺してもらうより、人を楽しませてもらうほうが上等だ」と言いました。
私は、むかしはジョン・レノンが正しいと思っていましたが、いまは「そういうことが言えるジョンは、幸せな時代に生まれたのだなあ」と思います。


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