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フランツ・フェルディナンドの番組を見ました

フランス2という、日本のNHKにあたる放送局があります。
そこで、「歴史の秘密」という番組がありまして、夜のメインニュースが終わったあとに、定期的にやっています。Nスペ歴史みたいなものでしょうか。

そこで、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナンドの特集をやっていました。
サラエボで夫婦ともに暗殺されて、第一次世界大戦のひきがねになった、あの人です。
このあたりのことは、ヨーロッパの歴史好きなら言うまでもないでしょう。
ソフィというチェコ人と恋に落ち、皇帝のフランツ・ヨーゼフは、結婚を認めるかわりに、ソフィを皇后とは絶対に認めず、子どもたちも皇位継承圏を放棄することを宣誓させました。

見ていて「へえ」と思ったこと。

・いとこのルドルフ皇太子(のちに自殺)と仲がよかった。ルドルフのほうが年が上で、お兄さんみたいに慕っていたらしい。狩によく一緒にいって、軍事をつかさどるために集まるチェコのなんとか城でよく会っていたという。
フランツには弟がいて、すごく明るくて愛されていたのに対し、兄のフランツは静かで神経質なタイプ。典型的な家の跡取り長男と次男だったようだ。そんなフランツだから、年上のルドルフのことを慕っていたのだろう。芸術家気質のルドルフに性愛のてほどきとか、乱ちきパーティーっていうのでしょうか、そういうのを一緒にやっていて、二人で愛人を共有していたそうだ。

・ソフィとは恋愛結婚だったけど、皇室の慣例をやぶって、親子3にんの親密な家庭を築いていたという。
ソフィは貴族でも下級貴族だから、そういうのをもちこんだのでしょう。それがフランツにはうれしくて、すごく家族愛の深い一家だったという。(そういえば美智子さまも、子どもの教育にあたって皇室にない慣例をもちこみましたね。日本のほうが遅いですが、時代の必然的な変化なのでしょう)

・世界旅行をして、日本にも来ていた。知らなかった。ロシアのニコライ皇帝が来たのはしっていたけど、そういえばそんな話を前に読んだかな。浴衣みたいなのを着ている写真が残っている。アメリカにも行って、精神的に影響を受けたらしい。

・フランスの死後皇太子になるカールの結婚式。これにソフィも出席していて、皇帝と言葉をかわしている。映像が残っていて、それを放映していたのです。

・暗殺されたのは、サラエボに来たときではない。来たときに手榴弾を投げられて、命に別状はなかった。暗殺未遂といってよい。そのあとに病院にいこうとしたときに、暗殺された。私は訪問で来た時に暗殺されたのだと思っていた。なんでまた群衆がいるところに車出して出かけるんだろう・・・。アホじゃないか、って私に言われたくないだろうけど・・・。いさめる側近はお供していなかったんだろうか。旅行中でいなかったのか、言っても聞かなかったのか。(傷病兵のお見舞いだったらしいけど)

・暗殺された後、人々はお年で皇帝が死んだのかと思ったらしい。皇太子が暗殺されたとわかって、彼はハンガリーに好意的ではなかたったので、ハンガリー人には「ブタが死んだ」と言われた。遺体がウイーンに搬送されて、人々の感情はゆっくりともりあがってきたという。あまり好かれていなかったのもあるけれど、やはり今と違ってメディアが発達していたわけではないので、こうなのかなとも思う。

・ドイツ皇帝はフランツと仲がよかったので、お葬式に出席したいと申し出た。でも、「突然のことで外国の元首を呼ぶ準備ができていない」と断られ、外国の皇族や貴族は一切呼ばれないお葬式となった。

・有名な話だけど、夫婦の棺は並んで置かれたのではなく、妻のほうが30センチ低かった。足元におかれる品々も、皇太子のほうは勲章や剣など立派だったけど、妻のほうは扇などで、「なんでもない存在」という扱いだった。

・悲報を聞いた皇帝の最初の言葉は「おお神よ、かわいそうな子どもたち」だったという。(神が私が保てなかった秩序を保った、じゃないの?)

・暗殺したセルビア人の青年19歳は、もし自分が同じ状況におかれたら、また同じことをすると言った。

・親を殺された3人の子供は、犯人に対して「あなたの罪をゆるす」という手紙を書いた。とてもキリスト教的、と子孫は語る。

・番組には、3人の子どもの子孫にあたる女性が二人登場したが、どちらも全部フランス語で応対していた。

・最後に皇帝フランツ・ヨーゼフの子孫が出てきた。セルビアに宣戦布告をするための外務大臣による電報の草稿を示した。ここに正式なフランス語訳が書かれていた。これをウイーンのセルビア大使館に送ったという。彼はちょっとフランス語をはなし、当時は外交でフランス語が使われていたと言った。


面白かったのは、司会者が最後に、彼の死は現代的な君主制、改革をよびおこした、20世紀の殺戮の時代をへて、彼の暗殺が平和な欧州の重要性を伝えたと結んでいたこと。

改革、、、ねえ。

この前、モナコの公妃が懐妊のニュースが流れたのだけど、ちょうどそんなことを考えていたところ。

モナコの君主であるアルベール公には二人、認知した婚外子がいる。一人はアメリカ人女性、もう一人はアフリカ系のフランス人で、元エールフランスのスチュワーデス。奥さん入れて3人の女性は全員平民なのだから、なぜすでにいる子どもは公位継承権がなくて、今度生まれる子どもにはあるのだろう、って思っていたのよね。

モナコはカトリックが国教だったと思ったので、そのせいなのだろうか。でも、今生まれてくる子どもの半分が婚外子のフランスにいると「だから何?」と思ってしまう。アルベール公のお姉さんは、確か3回結婚して、2回は離婚、1回は死別している。
一人目の夫は忘れた。子どもいないし、すぐ離婚したんだと思った。二人目はイタリア人の富豪だったと思った。子供は二人か三人いて、この夫とは死別。これは気の毒だと思う。三人目はドイツのほうの貴族。これは子供が一人いて離婚。やりたい放題だなあ。カトリックは、厳密には離婚はないはずでしょ。カトリックも何もないもんだ。いま、モナコでは女性にも継承権があるので、このお姉さんは確か次の公位継承者。でも今度、アルベール公妃に子供が生まれれば、その子が性別に関係なく公位継承者。
さっぱりわからない。
こういうの見ていると、もういっそやめたら? と言いたくなってくる。

確かにそういう意味では、フランツ・フェルディナンドは先駆者だったかもしれない。
愛が重視され家族が仲良く、国民の手本になったということで。もっとも当時は、そういう手本はいらなかったのかもしれないけど。

それにしても、私はなぜフランツ・ヨーゼフ皇帝は、フランツ・フェルディナンドの次の後継者をきちんと決めなかったのだろうと思っていた。貴賎結婚で、子どもたちの皇位継承を否定したのだから、次を決めないとダメじゃない。
でも番組を見ていて、なんとなくわかった気がした。そんなことをしたら、宮廷が二分されてしまう。公けの問題でありながら、皇帝にとっては家族の問題。辛かったでしょうね。そもそも、皇后がほっつきあるいて、ちっとも皇帝を支えなかったのがいけなかったのではないだろうか。イヤ~な姑(夫=皇帝の母親)がいたらしいが、姑は死んだわけで、死んだあとくらい宮廷に戻ってきたらどうでしょう。夫も息子も、妻・母親不在で、すごく辛かったんじゃないでしょうか。息子が死んでも夫のそばにいないなんて、最低。(娘はかわいがったらしいけど)
こんなこと、若い独身のときは考えたこともなかったんだけどね。20代のときは「流転の悲劇の皇妃」で、ロマンチックだと思っていたものですが・・・。年の功?
もっともシシィさんは、ほっつき歩いていただけで、よそに男性をつくったわけではなかったので、まあいいですが・・・。でも年取ってほっつき歩くのは辛かったかも。
一人の男性としては、フランツ・ヨーゼフ皇帝よりも、フランツ・フェルディナンド皇太子のほうが幸せだったかもしれません。たとえ貴賎結婚であっても・・・とロマンチックにいいたいところだけど、貴賎結婚だったから夫は大事にされたのかも。身分の低い妻が、身分の高い夫につかえる意識があっただろうから。ある意味、夫をほったらかして、あっちこっちふらふらしている妻というのは、対等だからできるのよね。
ああ、こう書いていて、自分の考えが、明らかに20代の若いころとは変わっているのに気づくわあ。昔、まだ私が高校生か大学生のころ、新宿でシシィ展だかハプスブルク展ていうのがあったのよね。あのときの感動を覚えているものだから、あのときの自分と比較しちゃうのよ。

今度シシィの回があるから、それも見なくっちゃ。

ほんとうに今年は、第一次世界大戦関連が多いなあ。100周年だからね。
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コメント 1

みるく

えっと、モナコの公位継承については、憲法をご覧になるとよろしいかと。
by みるく (2014-07-22 04:57) 

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