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シャルリ・エブドはフランス革命精神

なんだか、日本の番組で、フランスやヨーロッパのことが全くわかっていない「識者」がべらべらしゃべっていますが。。。
これほど日本人はヨーロッパのことに疎いのかと、空をあおぎたくなってくる。
日本にはアメリカの識者ならたくさんいるし、一般の人にも知っている人がいるだろうから注意深くなるのだろうけど、ヨーロッパのことになると、ひどいレベルの低さ。

それはおいといて。

シャルリ・エブドっていうのは、要はフランス革命精神の継承なんだと思う。

アメリカやイギリスですら、ムハンマドを揶揄することには慎重な傾向があるようだけど。
アメリカには独立革命が、イギリスには清教徒・名誉革命があったが、フランスの革命とは内容が違う。フランスの革命は、のちに世界で初めての社会・共産主義政権をつくるのにつながる革命であった。「自由・平等・博愛」というよりは、「自由・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・平等・博愛」なのだ。平等を追及するから、権威や権力が嫌いなのだ。権威や権力が嫌いで否定すると、社会がめっちゃくちゃになるので、あまり混乱が続くと、大きな権力が登場する。フランスの歴史は、この二つを行ったり来たりしている。

あの新聞は、ドゴールが亡くなった時に批判精神をもって揶揄したために、内務大臣から発禁処分をくらい、それで新聞の名前を今の「シャルリ・エブド」に変えて、同じスタッフが続けて出版したという経緯がある。訴訟は数知れず。平均、年に2回訴えられているという。

それでもやめない。
仲間をほぼ全員殺されても、やめない。

人々が「私はシャルリ」と訴えている。つまりあれは、「私は、シャルリと同じく、フランス革命精神をもっていて、すべての権威や権力を疑う。反抗だってする」「平等と自由を追求する」ということなのだと思う。(平等という概念には、ライシテ=非宗教性 というもう一つ大事な概念があるのだが、ややこしくなるので今回は省略)

私はパリに住んでいるので、この反抗精神というか、感覚や雰囲気がすごくよくわかる。
(フランスの中でも、革命精神が強いところと弱いところがある)。

一切の権威に対する反抗なのだ。アナーキー精神というか。

だからこの新聞は、当然左。中道左派よりも、もっともっと左。もしアナーキー精神を極左と呼ぶのなら、極左と呼んでもいいかもしれない。

といっても、風刺画家というのはアーティストでもあるので、理論武装はしていないかもしれない。感覚的なものが優先しているかもしれない。思想家や政治家、運動家ではなく、アーティストだから、「揶揄」「からかい」「辛辣なユーモア」という形になる。

もちろん、いつも上質な鋭い辛辣さというわけではなかったようだ。どの作品やコラムもそうだけど、「今回のは面白かった」というのもあれば、「なんだこれ」というのもあるだろうし、「最近は面白い」「つまらなくなった」というのもあるだろう。正直言って、名前は有名だけど、そんなに売れている新聞じゃなかったので、よくわからない。2万部とも言われているが、本当にそんなに売れていたのかな。あと、リベラシオンと同じで、パリ以外で読んでいる人はあまりいないんじゃないか。図書館にも、もちろんないし。

目下「言論の自由はどこまで許されるか」としきりに議論されているが、大きな問題はそれだけじゃない。誤解を恐れずにいれば、アナーキストと、宗教過激主義者の争いである。まさに水と油。どこをどうとっても、共通点や接点はありそうにない。それでも、これが両者とも理論武装した思想犯だったら、意外に極左と宗教極右は似てきそうだ。でも、片方はアーティストで、片方は殉教したい兵士。この点でも両者は水と油である。

解決方法は、はっきり言おう、ない(きっぱり)。

日本人的には、「人様が尊敬しているものを、そんなふうに揶揄するなんて・・・」と思うだろう。思想ではないが、気配り文化である。

アメリカやイギリスでは、やはり人様の宗教に配慮する方向に動くのではないか。それは、不用意に争いを招きたくないという気持ちもあるだろうが、それよりなにより、彼らは「平等」よりも「自由」を尊ぶ風土。
特にアメリカは、宗教の自由を求めてやって来た人が建国した国だ。
自分の自由、自分の宗教を尊重してほしいから、人様の自由・宗教も尊重する。人様がムハンマドを大事にしたい、偶像崇拝が禁止の文化で、イラストにすら描いてほしくないというのなら、その気持ちを尊重する。だから私の宗教にも配慮しろ、ということなのじゃないかと思うのだ。
「自由を尊重するがゆえの配慮」と、「言論の自由」は、やはり対立してしまう。でもアメリカ(とイギリス)はコミュニティ主義なので、「あなたはあなた、私は私で、お互い干渉せずに共存しましょう。でもお互いアメリカ人ですよね。私たちは自由を尊ぶアメリカの国民ですよね」という考えなのだと思う。

フランスは違う。平等なんだから。人種や宗教を乗り越えて「平等」であろうとするのだから。わかりにくかったら、思い切って「(思想的には)共産主義者的」と思ってくれていいくらいだ。
前述したように、人類史上初めての共産・社会主義政権はパリ・コミューンである(短命でしたが)。インターナショナルは、もともとはフランスの歌。
もちろん、フランスは共産主義の国じゃないけれど、社会主義思想はものすごく強い。

だから今回、フランスで「言論の自由」という時と、アメリカなどで「言論の自由」というときには、微妙な違いがある。アメリカでは、事件後の最新号の表紙は、ワシントンポストのみが宗教の冒涜でないという理由で、掲載したが、ほかの主要紙はのせなかったそうだ。アメリカでは「表現の自由のせいで、人様の宗教を冒涜しないだろうか」と議論されるのだろうが、フランスでは、揶揄することそのものに問題をさしはさむ風潮は、あまりないと思う(イスラム教徒は別)。

あらゆる権威も権力も、揶揄したり否定したりする権利をもつのは、フランス人にとっては自明のことである。これを否定することは、フランス革命を否定することになる。

それよりも、事実上、ユダヤ人を揶揄するのだけは法律で規制されているのも同然なので、「イスラム教徒に対してはよくて、なぜユダヤ教徒に対しては禁止なのか」という議論になる。

ユダヤを冒涜するのは、「差別や暴力、憎しみの誘発になる」「国家や人々の安全、公共秩序にかかわる」つまり「人種差別を扇動する」という理由で、禁止になることが多い。他の宗教や民族よりもずっと、ユダヤに関してはこの条項が適用されやすい。これは、フランスでは前から議論されてきた。

有名なのは、デュードネというコメディアンの問題である。父親はカメルーン系なので、風貌はノワール(黒人)っぽいフランス人だ。不法滞在の人やホームレスを支援するという左の人だった。ところが、イスラエルのせいでパレスチナの人々が苦しんでいるというので、反ユダヤ的な発言が多くなり、しまいには極右のルペン父党首と親しくなっていった(極左と極右は似てくる例でしょう)。この人は、何度も罰せられているのだが、「世界のあらゆる人、あらゆる宗教を揶揄できるのに、ユダヤだけはできない」というような発言をしている。フランスでは、今回の件も、この路線、つまり「なぜ宗教によって違いがあるのか」という点で議論されている。

アメリカや日本とは、感覚が違う。
国が違う。
シャリル・エブドを支持するのは、革命精神を支持するようなものである。
だからあれほどの人がデモに集まったのだ。

確かに、平等を尊ぶべき国でありながら、差別はある。でも、いかに差別にフランスが戦っているか、テレビに出てきてしたり顔で話している識者はわかっていない。デモの人々の中に、フランス国旗だけではなくて、たくさんの国の国旗がひるがえっていたのに、気づかなかったのだろうか。差別は克服できていないが、それでも克服しようと努力しているフランスの姿勢を、認めている人はたくさんいるのだ。普段はその矛盾に不満をもっている人でも、このような危機に陥ったために、国家の擁護にまわったひとはたくさんいたと思う。イスラム教徒の中にだってたくさんいる。
アメリカとフランスは、思想は異なるが、二つの「民主主義の普遍思想」をもった国なのだ。
でも、宗教の問題がからむと、難しい。どうしていったらいいのか。。。

このようなことを、アメリカには詳しい識者は、まったくわかっていない。
全然知りもしないのに、テレビで知ったかぶって、べらべらしゃべらないでください。
「××人を殺せ」などというヘイトスピーチが堂々と通りで行われる国の人に、批判されたくないですしね。

ちなみに私が思うことですが。。。
先ほど書いたように「解決方法は、ない」と思います。
自分が信じるもののために生きる。
殺された40代の風刺画家は、「自分は妻も子供もいないから迷惑はかけない」というようなことを言っていたが、それほどの覚悟で風刺をやっていたのだ。
かたや、神のために死んでもいいと思っていた兄弟。そして機動隊に射殺された。
もうどうしようもない。
ただ、孤児院で育ち、今回の事件では標的のみを狙い、人質は一人も殺さず殺す気配すら見せなかった兄弟には、許されないことをしたとはいえ、同情の念は禁じえない。
ユダヤ系のスーパーにいた一般市民を殺した事件とは、違いを感じる。
憎しみの連鎖にならないことだけを願うしかない。

付け加えると、少なくともフランスでは、イスラム移民に対する問題はこれからも一層深刻になるだろうけど、ユダヤ問題で国の土台がゆすぶられることはないと感じる。でもドイツは・・・。今回のテロは、イスラム問題だけではない。ユダヤ系スーパーが襲われて一般市民が殺されている。「外国人、出ていけ」という動きになると、こっちがドイツでは深刻化するのではないか。イスラム移民だけなら排斥に内心では共感を感じるドイツ人も、ユダヤ排斥となると。。。でも、移民排斥を唱える団体や政党が、イスラムとユダヤを区別するだろうか。ドイツには、真正右翼で欧州議会でも嫌われている政党もあるし、ネオナチの動きもあるし・・・。

宗教に思想。本当に難しい。
人が自身の信念に生きるなら、共存は無理だ。
だからこそ、人は、新大陸を欲したのだ。
でも今の時代、もう新大陸はない。
どうしようもない・・・・・・。
悲しいのをとおりこして、もうため息しか出ない。。。

失業率さえもっと低ければ、、、とは思う。
お金があれば対立や差別がなくなるわけではないけれど、暮らしが安定していれば、問題は表面化や先鋭化しにくいのは確かである。
ヘイトスピーチが法規制さえされていない日本は、昔は牧歌的だったのか、それとも単に鈍かっただけか。

ちなみに、「風刺画が下品すぎる。イスラム教徒が怒るのは無理ない」という批判があるようですが、確かにそういうものもありますね。あれは、風刺画家の才能があまりないから、そうなるのです。
風刺画っていうのは、ものすごく才能がいります。たった1枚の絵で、社会を鋭く批判し風刺し、絵も描けないといけない。直観力と知性と洞察力に優れていないとできません。絵は練習と訓練で上手になることはできますが、鋭い頭の良さ、直観力と批判力は、かなりもって生まれた才能です。
文章や、ストーリーマンガとは別の種類の才能だと思います。

でも、才能がないから風刺してはいけないということはないです。権力や権威に反抗する精神が大事なジャンルですから。才能がない人は、選挙で投票してはいけないことはないでしょう? それと同じです。民主主義では、誰だって投票する権利はある。「あの候補、顔が好み」という理由で投票するアホもいますが、だからといって投票してはいけないことはない。投票する権利は奪えない。もちろん、政治家に立候補する側も同じです。才能がない人や頭がよくない人は、立候補してはいけないということはない。風刺画家も、同じ理屈です。

でも、風刺が下手なら、部数はおちて売り上げは減るでしょう。
それに、レベルの高くない風刺は、やっぱり人々の神経を逆なでしますけどね。。。



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コメント 2

NO NAME

ただ、孤児院で育ち、今回の事件では標的のみを狙い、人質は一人も殺さず殺す気配すら見せなかった兄弟には、許されないことをしたとはいえ、同情の念は禁じえない。

ですが、事件についてフランスの新聞を読まれましたか?
この事件で警察官を2人も殺している事を忘れないでください。特に風刺画と関係ない場所で銃撃戦になり、怪我をした警察官を冷酷に撃ち殺した事を知ったときには何とも言えない悲しみを感じました。
by NO NAME (2015-01-18 16:34) 

Sally

コメントありがとうございました。殺害された警官が同じアルジェリア系のフランス人だったことも、フランス社会の複雑さを表していると思います。
でも、警官は武装しています。一般市民とは違います。今、日本では、オウムの最後の公判がはじまりました。オウム信者は、地下鉄で、普通の一般市民を、サリンで殺しています。無差別殺人です。
これらと比較すると、どうしても兄弟には多少の同情の念が生じてしまいます。実際に、フランスはイスラム国の爆撃に参加し、一般市民が殺されていますしね・・・。難しい問題だと思います。

by Sally (2015-01-18 17:17) 

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