ルーブル美術館通い16 「Poussin et Dieu(プーサンと神)」「神聖なイメージの制作」という展覧会
追記/友達が「ホモは差別用語」と教えてくれました。知りませんでした・・・。すみません。以下の文章を「ゲイ」と直したうえで、読み直してみて、誤解を招かないように一部追記しました。書いていて「そういえばホモというのはヘテロの逆の語だから、ホモといったらレズも入るのだろうか」とは思ったのですが、「でも外国語ならともかく、日本語でホモといったら男性を指すから、まあいいかな」と思ったんです。まさか差別用語とは知りませんでした。ところで「ホモ」はダメだけど「ホモセクシュアル」ならいいのかな??? 言葉は難しい。。。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ルーブルの特別展で、「Poussin et Dieu(プーサンと神)」というものをやっています。
同時展として、「 La fabrique des saintes images Rome-Paris, 1580-1660」(神聖なイメージの制作)」というのも、合わせてやっています。
ニコラ・プッサンは、17世紀、フランスで言うとルイ13世の時代の有名な画家です。
画家の人生の大半をローマで過ごしていて、一度ルイ13世に呼ばれてパリにいったんだけど、嫉妬やら何やらで嫌になり、ローマにまた戻ったそうです。
教会のために描いたせいか、大きい絵が多かったです。
でも。。。やっぱりキリスト教はわからない。難しい。
古代のテーマもあるんだけどね。
そこに「聖母の死」という、どこかで見たような絵がありました。
展覧会が始まる前に、ルーブルの常設展で見たのかな?
そこで思ったのだけど。
なぜ聖母マリアって死んだの?
すみません、変な質問で。
神は永遠だから死なない。
イエスキリストは、十字架にはりつけにされて殺されたけど、復活した。
で・・・聖母マリアは死んだままなの?
それって不公平じゃない?
なんだか納得できない。
あれほど讃えられていて、イエスを上回ると思えるほど芸術家によって作品がつくられて、人々の信仰を集めているのに、普通の人間と同じように死んだままなの?
納得できない。
女性差別だ!というのは言い過ぎにしても。
当時は子どもを産んで死んじゃった女性がたくさんいたんだから、蘇ってくれないと救いがないじゃないか。それとも「神の子を産んだマリア様といえど、死から免れられない」ということなのかしら。
そういえばこの前、ムッシューが「プロテスタントの人は、聖母マリアとは言わないんだよ。聖人はいないからね」と教えてくれた。
カトリックとプロテスタントの違いは、教科書で習ったようなことしか知らないのだけど、プロテスタントではマリア様を一人の人間としてとらえるのかしら。
でも、本当にプーサンは華やかな絵よね。彼は、宗教改革(プロテスタント)がおこって、それに対抗するためにカトリック界が絵などを使ってさらに対抗した時代に生きたとあったので、色などをふんだんに使ったものが求められたのかしら。
頭がごちゃごちゃしてきたので、まとめてみる。
1517年 マルティン・ルターによる『95ヶ条の論題』。宗教改革の始まりといっていい。
1545年ー1563年に3回「トリエント公会議」というのがあって、これが宗教改革(プロテスタント)に対抗するカトリックの反宗教改革の頂点らしい(最近は、対抗宗教改革というそうだ)
1549年 反宗教改革の有名な修道会、イエズス会の大物ザビエルが日本に来た。
1580年頃から17世紀にかけて、カトリック教会の反宗教改革の後押しをうけてバロック芸術が開花。
1594年ー1665年がプッサンの生涯だから、まさにバロック時代ですね。
面白かったのは、プッサンの受胎告知。大きい油絵と、小さいものがあったんだけど、大天使ガブリエルが「えいっ!」と何かこうマリア様に投げ入れ込んでいる感じ。なんだか微笑ましく笑えた。大きいほうはロンドンナショナルギャラリーにあるものだそうだ。
上と下が切れていますが。
同じく「 La fabrique des saintes images Rome-Paris, 1580-1660」(神聖なイメージの制作)」という展覧会が同時に見られた。
入場券見せて入り口をはいって、右がプッサン、左がこの展覧会。
ここで、カラバッジオの「聖母の死」がかかっていた。
あ、たぶんこれだ、私が見たのは。
プッサンの「聖母の死」とそっくり。
カラバッジオのほうには、制作年がはっきり書かれていなかったけど、彼はプッサンが描く前に死んでいるので、間違いなくカラバッジオのほうが先。(これを確かめるために、往復。広くて結構疲れる)
今、家に帰ってみてみたら、ウイキ情報だけど、カラバッジオのほうが1605−6年制作、プッサンのほうが1623年制作だそう。
カラバッジオのほうは、そのへんのおばさんが死んだみたいで、天使も飛んでいない。唯一紅いカーテンや光の感じが荘厳といえないこともない。でも、本当に悲しそう。。。手前の女性(娘???)や奥の男性(夫???)が特に。
それに対してプッサンの絵は、ちゃんと天使も飛んでいるし、聖職者もいる。カラバッジオによって「町の女性のようなリアルっぽいマリア様」という斬新な絵がうまれていたのに、絵まで元に戻って反動しているのね。政治の影響ってすごい。人は社会や政治と無関係に生きられませんね。
プッサンのほうは、パリのノートルダム寺院のために描かれたけど、革命がおきて一時はルーブルにいったものの、その後色々あって行方不明だったのが、ベルギーの教会でみつかったそうです。
でも、カトリックは、本当に文化は豊か。お金と権力がありすぎて、腐敗があって大変だったのでしょうが、芸術的には素晴らしい。プロテスタントはこういうものを否定した。教義も芸術も極めてシンプルになった。これも、前に書いたイスラム教の興りと似ているのかも。はっきり言うけど、やっぱり当時はドイツは芸術がとぼしいものね。オランダにはあるのに。
もちろん、プロテスタントの基本思想は、腐敗を正すことだったのだと思う。でもそれだけではなくて、何もない所から新しい事始めるのならミニマリズムに走るというか、他にやりようがないというか。
いや、それにしても、カラバッジオはゲイよね。ミケランジェロもゲイだったそうですが。
こんなこと書いたら怒られそうだけど、キリスト教ってゲイを誘発するものがあるかも。。。だって磷り付けの絵なんて痛そうじゃない。しかも裸体。
弱々しく描けば、あまりにも痛そう。仏教の穏やかな像を見慣れている日本人の私には「あれを崇めるのか・・・」とどうしてもわからない。
聖なる存在だからと、たくましく描けばなんだかマゾっぽくなる感じがする。
なんかこう・・・男の世界だわ。母体のユダヤ教がマッチョなのか。当時の社会はそれが普通だったのか。これも私の理解の域を超えている。「そういうものを崇めた外国」という姿勢でしか理解できない。
なぜこんな事を言うかというと、もう一つの「神聖なイメージの制作」展のほうを見ていて、なんだかそんなことを考えさせられたんです。
貼付けになったイエスの表情とか、十字架に貼付けられた筋肉の感じを、練習で素描で丁寧に描いている作品が色々あって、「こんな細かく考えながら描いているのね」と思った。「あの筋肉一つとっても、考えがあって描いているのだろう」とわかったような気持ちになった。どの程度の筋肉具合にするか、ちゃんと考えて、一本一本の線を描いているということは、男の画家が男の裸体を一生懸命考えて描いているわけで、、、「うーん・・・」と思ったのです。
私、女性の裸体を一生懸命描くなんて、まったく趣味じゃないわ。もちろん、絵の上達のためなら練習で描くのは構わないけど。でも、当時はみんな信者だから、絵の練習とかそういうものではないでしょう。信者が誠心誠意、魂をこめて、男が男の裸体を描くわけで・・・。いやいや、こんなのは不信心者の不届きな考えなのだろうけど、でもねえ。
それを言うなら、古代ギリシャローマだって同じ。
ただ、古代は彫刻が多い。絵は、壷に描いてあるのは残っているけど、わりと自然に近い感じ。ちょっと様式化されているところもある。絵はほとんどない。あったのに失われてしまっただけかもしれないけど。
男も女もムキムキした彫刻。さすがに女の裸の彫刻はないとはいえ、一応男女ともにリアルな感じ。でも、中世のキリスト教芸術は様式化されている感じだけど、それ以降のキリスト教芸術は、そういう感じじゃない。
(まあ、日本の仏教界もゲイの様相があったけど。お稚児さんとか・・・なぜそうなる??? 洋の東西で同じ要素と違う要素を比べたら興味深いかも)。
何年か前にオルセー美術館でゲイの系譜みたいな特別展をやっていた。詳しく覚えていないけど、「ああ、やっぱりキリスト教芸術には、はっきりゲイの跡があるんだな。単なる聖なる存在というだけじゃない。勇気ある展覧会だなあ」と思ったのは覚えている。
聖セバスティアヌスはよく出ていた(三島由起夫が好きな)。でも、現代においてすら、公けに堂々と言っていいと許容されているのは、せいぜい聖セバスティアヌスまでなのかな。それに、いくら現代でも、オルセーだから出来るのかも。あの展覧会、ルーブルじゃ絶対にできそうにない・・・。
やっぱり、女性の私としては、ゲイらしい芸術ならそうだと、ごまかさずに言ってほしいわけです。ミケランジェロの「奴隷」なんて、ゲイの人にはたまらなくセクシーな男性、そういうものをミケランジェロは描いたのだろう、と堂々と言えばいいじゃないの。
「魂は肉体に閉じ込められた奴隷云々」「新プラトン主義の影響が云々」。そういう面もあるのだろうけど、あの実物みて本当にそれだけと思うのか。高尚な解説のみをしているプロの方々、本当にあの像をルーブルで見て、なんてセクシー(あるいは、なんだかヤラしい)と思わなかったのですか。思わないのなら、変なんじゃないですか。思ったのなら、なぜ言わないのですか(とケンカを売ってみる)。
「確かにそうだわ。でも、本当にエロチックでよく出来ている。私の趣味じゃないけど(というか女性なのでゲイになれない。レズにはなれるけど)、美しい芸術作品だわ」と見ている私は思う。美術だから、ミケランジェロだから、古代をテーマにしているからと、ゲイという彼の嗜好を無視した高尚な解説をしなくても別にいいじゃないの。
でもさすがに、古代をテーマにした作品ならまだ言えても、キリスト教がからむと何かとまずいのでしょうが・・・。でも、日本はキリスト教文化圏じゃない。だからはっきり言って風穴を開ける事ができるのに。現地の人にはできないことでも、外国人だからできる。それが外国人に期待されている役割でもあるのに。現地の研究文献を訳して日本に紹介するだけが研究じゃないでしょう。
それに、はっきりさせないと、異議も唱えようがない。女の私としては、ゲイと同じくらいレズがいて、彼女達の存在感があるのならまあいい。まったく趣味じゃないから実際あったら嫌だろうけど、そういう問題ではない。私の趣味なんかどうでもいいのだ。私は社会の話をしているのです。男性が政治社会を牛耳り、しかも芸術家にゲイが多いのでは、女性がいる場所がないじゃないの。しかもそれを「あれはあの方の嗜好/芸術の傾向」ととらえていいのではなくて、「聖なるものとして・芸術として崇めよ」とされるなんて、ひどい。納得できない(こればっかり)。
当時はどんな反応だったんだろう。人々はどういう受け止め方をしていたんだろう。
(でもね、はっきり言うけど、あの有名な「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」なんて、レズと断言はしないまでも、レズっ気が絶対にあると思うわ。
まったく私の趣味じゃないけど、数少ない「レズ(のようなもの)」の存在を示す絵だと、描いた画家の勇気をたたえ、正当に評価するべきでしょう。あ、また批評家に怒られそうなこと書いちゃった。ま、私、職業は美術評論家じゃないし~)
しかも、政治権力や宗教権力と密接にかかわっているでしょう? まるで、ファーストレディといいながら実際はただの恋人で、税金使ってたオランド大統領の元恋人ヴァレリーさん事件のような。
うまく言えないけど、要するに「ごまかすな」と言いたいわけです。はっきりさせればいい。そのうえで批評なり批判なりすればいい。当時は宗教の制約が強くて、そういうなかで芸術家は自分の表現を最大限にしたいと思っていたんだろうけれど、今は現代。なのにオープンにできない。これって逆差別とも言えるのでは。もちろん今でもたくさん信者がいるから配慮が必要なのはわかるけど、芸術作品なんだから、批評はもっと自由であってほしい。
一応話を元にもどすと、プッサンはそういう感じはまったくありませんでした。彼はヘテロでしょう。
どういうキリストを描くのかというのは、画家の嗜好を反影しているのかも。キリストよりもマリア様や他の聖人たちを描くのが好きな画家もいるのでしょう。当時の流行や、土地の風潮だけじゃなくて、そういう点で作家をみたら面白いかも。
ところで、来ていたお客ですが、男性が目につきました。「いかにもな白人」という感じの人たち。普通、平日に行く展覧会で女性が多いのは当たり前として、ちょっといつもと違うなと思ったのは、40ー50代以降の、白人の、ちゃんとした会社で部長とか課長をしているのかなという雰囲気の男性たち。もっと若い人もいたけど。白人率圧倒的に高し。あ、でも黒人もいたかも。単なる美術鑑賞だけじゃなくて、フランスの誇る宗教画家をみにきたという感じなのかも。信者が結構きているんだろうな、と思いました。老夫婦なんかそうでしょうね。あと英語話している人も結構いたわ。
最後に、一つ。
聖母の死を見て思いました。
聖母も亡くなった。
みんな悲しんでいる。
でも、悲しんでいる人も死ぬのだ。
聖母の死を悲しんだ人はみんな死んで、もう誰も生きていない。
ーーーそんなことを見て思いました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ルーブルの特別展で、「Poussin et Dieu(プーサンと神)」というものをやっています。
同時展として、「 La fabrique des saintes images Rome-Paris, 1580-1660」(神聖なイメージの制作)」というのも、合わせてやっています。
ニコラ・プッサンは、17世紀、フランスで言うとルイ13世の時代の有名な画家です。
画家の人生の大半をローマで過ごしていて、一度ルイ13世に呼ばれてパリにいったんだけど、嫉妬やら何やらで嫌になり、ローマにまた戻ったそうです。
教会のために描いたせいか、大きい絵が多かったです。
でも。。。やっぱりキリスト教はわからない。難しい。
古代のテーマもあるんだけどね。
そこに「聖母の死」という、どこかで見たような絵がありました。
展覧会が始まる前に、ルーブルの常設展で見たのかな?
そこで思ったのだけど。
なぜ聖母マリアって死んだの?
すみません、変な質問で。
神は永遠だから死なない。
イエスキリストは、十字架にはりつけにされて殺されたけど、復活した。
で・・・聖母マリアは死んだままなの?
それって不公平じゃない?
なんだか納得できない。
あれほど讃えられていて、イエスを上回ると思えるほど芸術家によって作品がつくられて、人々の信仰を集めているのに、普通の人間と同じように死んだままなの?
納得できない。
女性差別だ!というのは言い過ぎにしても。
当時は子どもを産んで死んじゃった女性がたくさんいたんだから、蘇ってくれないと救いがないじゃないか。それとも「神の子を産んだマリア様といえど、死から免れられない」ということなのかしら。
そういえばこの前、ムッシューが「プロテスタントの人は、聖母マリアとは言わないんだよ。聖人はいないからね」と教えてくれた。
カトリックとプロテスタントの違いは、教科書で習ったようなことしか知らないのだけど、プロテスタントではマリア様を一人の人間としてとらえるのかしら。
でも、本当にプーサンは華やかな絵よね。彼は、宗教改革(プロテスタント)がおこって、それに対抗するためにカトリック界が絵などを使ってさらに対抗した時代に生きたとあったので、色などをふんだんに使ったものが求められたのかしら。
頭がごちゃごちゃしてきたので、まとめてみる。
1517年 マルティン・ルターによる『95ヶ条の論題』。宗教改革の始まりといっていい。
1545年ー1563年に3回「トリエント公会議」というのがあって、これが宗教改革(プロテスタント)に対抗するカトリックの反宗教改革の頂点らしい(最近は、対抗宗教改革というそうだ)
1549年 反宗教改革の有名な修道会、イエズス会の大物ザビエルが日本に来た。
1580年頃から17世紀にかけて、カトリック教会の反宗教改革の後押しをうけてバロック芸術が開花。
1594年ー1665年がプッサンの生涯だから、まさにバロック時代ですね。
面白かったのは、プッサンの受胎告知。大きい油絵と、小さいものがあったんだけど、大天使ガブリエルが「えいっ!」と何かこうマリア様に投げ入れ込んでいる感じ。なんだか微笑ましく笑えた。大きいほうはロンドンナショナルギャラリーにあるものだそうだ。
上と下が切れていますが。
同じく「 La fabrique des saintes images Rome-Paris, 1580-1660」(神聖なイメージの制作)」という展覧会が同時に見られた。
入場券見せて入り口をはいって、右がプッサン、左がこの展覧会。
ここで、カラバッジオの「聖母の死」がかかっていた。
あ、たぶんこれだ、私が見たのは。
プッサンの「聖母の死」とそっくり。
カラバッジオのほうには、制作年がはっきり書かれていなかったけど、彼はプッサンが描く前に死んでいるので、間違いなくカラバッジオのほうが先。(これを確かめるために、往復。広くて結構疲れる)
今、家に帰ってみてみたら、ウイキ情報だけど、カラバッジオのほうが1605−6年制作、プッサンのほうが1623年制作だそう。
カラバッジオのほうは、そのへんのおばさんが死んだみたいで、天使も飛んでいない。唯一紅いカーテンや光の感じが荘厳といえないこともない。でも、本当に悲しそう。。。手前の女性(娘???)や奥の男性(夫???)が特に。
それに対してプッサンの絵は、ちゃんと天使も飛んでいるし、聖職者もいる。カラバッジオによって「町の女性のようなリアルっぽいマリア様」という斬新な絵がうまれていたのに、絵まで元に戻って反動しているのね。政治の影響ってすごい。人は社会や政治と無関係に生きられませんね。
プッサンのほうは、パリのノートルダム寺院のために描かれたけど、革命がおきて一時はルーブルにいったものの、その後色々あって行方不明だったのが、ベルギーの教会でみつかったそうです。
でも、カトリックは、本当に文化は豊か。お金と権力がありすぎて、腐敗があって大変だったのでしょうが、芸術的には素晴らしい。プロテスタントはこういうものを否定した。教義も芸術も極めてシンプルになった。これも、前に書いたイスラム教の興りと似ているのかも。はっきり言うけど、やっぱり当時はドイツは芸術がとぼしいものね。オランダにはあるのに。
もちろん、プロテスタントの基本思想は、腐敗を正すことだったのだと思う。でもそれだけではなくて、何もない所から新しい事始めるのならミニマリズムに走るというか、他にやりようがないというか。
いや、それにしても、カラバッジオはゲイよね。ミケランジェロもゲイだったそうですが。
こんなこと書いたら怒られそうだけど、キリスト教ってゲイを誘発するものがあるかも。。。だって磷り付けの絵なんて痛そうじゃない。しかも裸体。
弱々しく描けば、あまりにも痛そう。仏教の穏やかな像を見慣れている日本人の私には「あれを崇めるのか・・・」とどうしてもわからない。
聖なる存在だからと、たくましく描けばなんだかマゾっぽくなる感じがする。
なんかこう・・・男の世界だわ。母体のユダヤ教がマッチョなのか。当時の社会はそれが普通だったのか。これも私の理解の域を超えている。「そういうものを崇めた外国」という姿勢でしか理解できない。
なぜこんな事を言うかというと、もう一つの「神聖なイメージの制作」展のほうを見ていて、なんだかそんなことを考えさせられたんです。
貼付けになったイエスの表情とか、十字架に貼付けられた筋肉の感じを、練習で素描で丁寧に描いている作品が色々あって、「こんな細かく考えながら描いているのね」と思った。「あの筋肉一つとっても、考えがあって描いているのだろう」とわかったような気持ちになった。どの程度の筋肉具合にするか、ちゃんと考えて、一本一本の線を描いているということは、男の画家が男の裸体を一生懸命考えて描いているわけで、、、「うーん・・・」と思ったのです。
私、女性の裸体を一生懸命描くなんて、まったく趣味じゃないわ。もちろん、絵の上達のためなら練習で描くのは構わないけど。でも、当時はみんな信者だから、絵の練習とかそういうものではないでしょう。信者が誠心誠意、魂をこめて、男が男の裸体を描くわけで・・・。いやいや、こんなのは不信心者の不届きな考えなのだろうけど、でもねえ。
それを言うなら、古代ギリシャローマだって同じ。
ただ、古代は彫刻が多い。絵は、壷に描いてあるのは残っているけど、わりと自然に近い感じ。ちょっと様式化されているところもある。絵はほとんどない。あったのに失われてしまっただけかもしれないけど。
男も女もムキムキした彫刻。さすがに女の裸の彫刻はないとはいえ、一応男女ともにリアルな感じ。でも、中世のキリスト教芸術は様式化されている感じだけど、それ以降のキリスト教芸術は、そういう感じじゃない。
(まあ、日本の仏教界もゲイの様相があったけど。お稚児さんとか・・・なぜそうなる??? 洋の東西で同じ要素と違う要素を比べたら興味深いかも)。
何年か前にオルセー美術館でゲイの系譜みたいな特別展をやっていた。詳しく覚えていないけど、「ああ、やっぱりキリスト教芸術には、はっきりゲイの跡があるんだな。単なる聖なる存在というだけじゃない。勇気ある展覧会だなあ」と思ったのは覚えている。
聖セバスティアヌスはよく出ていた(三島由起夫が好きな)。でも、現代においてすら、公けに堂々と言っていいと許容されているのは、せいぜい聖セバスティアヌスまでなのかな。それに、いくら現代でも、オルセーだから出来るのかも。あの展覧会、ルーブルじゃ絶対にできそうにない・・・。
やっぱり、女性の私としては、ゲイらしい芸術ならそうだと、ごまかさずに言ってほしいわけです。ミケランジェロの「奴隷」なんて、ゲイの人にはたまらなくセクシーな男性、そういうものをミケランジェロは描いたのだろう、と堂々と言えばいいじゃないの。
「魂は肉体に閉じ込められた奴隷云々」「新プラトン主義の影響が云々」。そういう面もあるのだろうけど、あの実物みて本当にそれだけと思うのか。高尚な解説のみをしているプロの方々、本当にあの像をルーブルで見て、なんてセクシー(あるいは、なんだかヤラしい)と思わなかったのですか。思わないのなら、変なんじゃないですか。思ったのなら、なぜ言わないのですか(とケンカを売ってみる)。
「確かにそうだわ。でも、本当にエロチックでよく出来ている。私の趣味じゃないけど(というか女性なのでゲイになれない。レズにはなれるけど)、美しい芸術作品だわ」と見ている私は思う。美術だから、ミケランジェロだから、古代をテーマにしているからと、ゲイという彼の嗜好を無視した高尚な解説をしなくても別にいいじゃないの。
でもさすがに、古代をテーマにした作品ならまだ言えても、キリスト教がからむと何かとまずいのでしょうが・・・。でも、日本はキリスト教文化圏じゃない。だからはっきり言って風穴を開ける事ができるのに。現地の人にはできないことでも、外国人だからできる。それが外国人に期待されている役割でもあるのに。現地の研究文献を訳して日本に紹介するだけが研究じゃないでしょう。
それに、はっきりさせないと、異議も唱えようがない。女の私としては、ゲイと同じくらいレズがいて、彼女達の存在感があるのならまあいい。まったく趣味じゃないから実際あったら嫌だろうけど、そういう問題ではない。私の趣味なんかどうでもいいのだ。私は社会の話をしているのです。男性が政治社会を牛耳り、しかも芸術家にゲイが多いのでは、女性がいる場所がないじゃないの。しかもそれを「あれはあの方の嗜好/芸術の傾向」ととらえていいのではなくて、「聖なるものとして・芸術として崇めよ」とされるなんて、ひどい。納得できない(こればっかり)。
当時はどんな反応だったんだろう。人々はどういう受け止め方をしていたんだろう。
(でもね、はっきり言うけど、あの有名な「ガブリエル・デストレとその姉妹ビヤール公爵夫人とみなされる肖像」なんて、レズと断言はしないまでも、レズっ気が絶対にあると思うわ。
まったく私の趣味じゃないけど、数少ない「レズ(のようなもの)」の存在を示す絵だと、描いた画家の勇気をたたえ、正当に評価するべきでしょう。あ、また批評家に怒られそうなこと書いちゃった。ま、私、職業は美術評論家じゃないし~)
しかも、政治権力や宗教権力と密接にかかわっているでしょう? まるで、ファーストレディといいながら実際はただの恋人で、税金使ってたオランド大統領の元恋人ヴァレリーさん事件のような。
うまく言えないけど、要するに「ごまかすな」と言いたいわけです。はっきりさせればいい。そのうえで批評なり批判なりすればいい。当時は宗教の制約が強くて、そういうなかで芸術家は自分の表現を最大限にしたいと思っていたんだろうけれど、今は現代。なのにオープンにできない。これって逆差別とも言えるのでは。もちろん今でもたくさん信者がいるから配慮が必要なのはわかるけど、芸術作品なんだから、批評はもっと自由であってほしい。
一応話を元にもどすと、プッサンはそういう感じはまったくありませんでした。彼はヘテロでしょう。
どういうキリストを描くのかというのは、画家の嗜好を反影しているのかも。キリストよりもマリア様や他の聖人たちを描くのが好きな画家もいるのでしょう。当時の流行や、土地の風潮だけじゃなくて、そういう点で作家をみたら面白いかも。
ところで、来ていたお客ですが、男性が目につきました。「いかにもな白人」という感じの人たち。普通、平日に行く展覧会で女性が多いのは当たり前として、ちょっといつもと違うなと思ったのは、40ー50代以降の、白人の、ちゃんとした会社で部長とか課長をしているのかなという雰囲気の男性たち。もっと若い人もいたけど。白人率圧倒的に高し。あ、でも黒人もいたかも。単なる美術鑑賞だけじゃなくて、フランスの誇る宗教画家をみにきたという感じなのかも。信者が結構きているんだろうな、と思いました。老夫婦なんかそうでしょうね。あと英語話している人も結構いたわ。
最後に、一つ。
聖母の死を見て思いました。
聖母も亡くなった。
みんな悲しんでいる。
でも、悲しんでいる人も死ぬのだ。
聖母の死を悲しんだ人はみんな死んで、もう誰も生きていない。
ーーーそんなことを見て思いました。
2015-04-30 06:29
nice!(0)
コメント(0)
トラックバック(0)
コメント 0