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あしたのジョー

全然パリとも欧州とも関係なくてすみません。

実は私は昔から漫画のあしたのジョーが好きでして。
昔、新宿区に住んでいたことがあるのですが、一昔前のいかにも喫茶店という所に入りました。時間をつぶさないといけなかったのですが、界隈にその1件しかなかったのです。中にジョーtが置いてあった。名前は有名で知っていたので読み出したら、もうとまらない。次回はわざわざ早めにいって、完読したのでした。
テレビアニメを見たのはもっとかなり後、ネットで見ました。
今回改めて見てみて、またほれなおしました。
不定期的に「ジョー大好きモード」が襲ってくる(苦笑)。

今回見て気づいたことは、「これってまさに日本だ」ということでした。

ジョーって、本人も言うように、初期のうちはクロスカウンター一本槍の「バカの一つ覚え」だったんです。ノーガード戦法といって、うでをだらりんと下げて、打ちまくられる。でも、相手が隙をみせるから、それを狙ってクロスカウンターにもっていくという戦法です。

あんなみすぼらしいジムで、パートナーは唯一マンモス西だけ。彼すらも途中退場。
世界ランカーを狙うようになって、明らかにジョーが師である丹下氏を乗り越える。丹下氏が役に立たなくなって、たった一人。練習相手も、一緒に戦略を立ててくれる人もいない。ビデオを見て敵を研究できる環境にすらない。医者もいない。でもひたすらがむしゃらに頑張り、パンチドランカーになっても突っ走る。

戦中の日本にそっくりじゃありませんか。

日本はあの戦争で、大して戦略もなく防備も弱く兵站もまったく考えず進軍し、当然兵は死にまくるが、起死回生の手段とばかり、バカのひとつ覚えみたいに特攻をする。
あらゆる物は不足しているけど、精神力だけで突っ走ることを要求される。

ネットで「なぜジョーは最後に負けないといけないのか」という議論があったけど、負けないといけないのよ。だって戦中日本の化身なんだもの。それでもKO負けじゃなくて、判定負けというところがプライドなのでしょう。

そこまで原作者の梶原一騎が考えて描いたたとは思えないけど、あの人は戦後昭和の塊みたいな人だったようなので、時代的にそういう「美学」が骨身にしみていたのかもしれない。

あともうひとつ気づいたこと。
北斗の拳にそっくり。
北斗の拳がジョー似ているんだよね。
「友との戦いで哀しみを背負って強くなる」というところ。
北斗の拳もかなり行き当たりばったりで考えていた感じはする。
最初から「友との戦いで云々」というテーマで描いていたわけではなく、最初は単に北斗神拳と南斗聖拳の面白さを描いていただけという感じもする。そういう意味では、次から次へと変な物(?)が出てくる、同じ梶原作品の「巨人の星」に似ているかも。そう考えると、星飛雄馬の性格が、父親に従順という以外にまったく思い出せないのと同じで、ケンシロウもキャラの薄い主人公だった。星飛雄馬の父親と兄のラオウのほうが断然強烈なのも似ている。

ということは、原作者の武論尊は「北斗の拳」で、最初は巨人の星を描いていて、最後はあしたのジョーみたいになってしまったと言えないこともない(苦笑)。
でもジョーがああいう素晴らしい人間ドラマになったのは、ちばてつやのおかげらしい。
梶原氏も、「ジョーはちばてつやの作品だ」と言っていたという。
実際私は、梶原作品の巨人の星も空手なんとかも、まったく興味がない。
ただ、「階級闘争的恋愛」(すごい命名)は梶原のテーマらしく、そういう意味で「愛と誠」という漫画は読んでみたい気はする。

あしたのジョーは、外国でも受け入れられやすい内容だと思うけどな。
そういえば、北斗の拳で私が好きだったのは風のジュウザだった。
今気づいたけど、ジョーに似てるな(苦笑)。

それにしても、テレビアニメのあしたのジョー2になると、ジョーと力石が出てくるところが変に気持ち悪いと思う時がある。あるコメンテーターが「やおいの原点は、あしたのジョー2だ」と言っていたけど、納得。あしたのジョー2が本当に原点かどうかはどうでもいいのだけど、男の世界から、汗とか乱暴さとか粗雑さとか血とか臭さとか、そういう表現が失われると、やおいになるわけかと妙に解説に関心してしまった。私はなぜあれほどやおいが流行るのかよくわからなくて、恋愛は興味があるけど男女の生々しさに耐えられなくなった女性が出現したからかと思っていて、それは外れていないんだろうけど、発生の起源という意味で今回初めて理解できた。
汗とかゲロまできらきら光っていて、射し入る陽光も始終入ってきていて、はっきりいってやりすぎ。あしたのジョー1が途中で終わってしまっているのが、重ね重ね残念だ。あれで最後まで見たかった。特に、あの戦後昭和の香りが濃厚な、虫プロ制作の1で描かれたキムと朝鮮戦争の描写が見てみたかった。本当に残念・・・。
あと、ジョーが世界チャンピオンに挑戦したころは、正確にはサチは高校生になっていてもおかしくなかったはず。あの二人をくっつけたかったなー、と思うのでした。でも梶原ワールド的には、廃人になった(?)ジョーと葉子の絵で終わるはずらしかったので、絶対にありえなかったでしょうね。
さらに梶原氏は、「お前は試合には負けたけど、ケンカに勝ったんだ」という丹下氏に言わせたかったらしく、それはさすがにナシだろうと思うけど、廃人のジョーと葉子の二人というのは、それはそれでシュールな「階級闘争的恋愛」の完結で、私は悪くなかったと思うのだけど。

ところで・・・丹下段平を見て「ああ、丹下左膳」とわかる人は、いったい今の時代、どのくらいいるんだろうなー。私の世代で既にほぼゼロだったけど、私が若かったころは、少なくともわかる人は世の中にはいた。お年寄りとか映画好きとか。今なんて・・・ほんといないかもな。ジョーの中には講談調のセリフとか、日本の伝統につながる要素がまだ入っているけど、今なんて皆無でしょうね。
ヨーロッパ化している私がいうのもすごーく変かもしれないけど、私は昔の邦画を心から愛していたので。今から思うと私は、まだなんとか残っていた名画館(銀座の並木座、池袋の文芸座など)で、映画が映画だった時代の邦画を大スクリーンで思う存分学生時代に見ることができた、最後の世代だったのかもしれないな。。。
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