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ミラノのフィギュアスケート世界選手権2018をフランスで見ていて思った

ミラノの世界選手権2018、ガラを残して終わりました。
男子フリー、みんな転びまくっていましたね。平昌の団体戦みたい。
やっぱりオリンピックの後で疲れていたのかしら。

さて、フランス2(NHKに相当)で見ていました。
フランスって、解説はなぜか3人が多い。日本だと2人が多いと思うのだけど。

今回は、アナウンサー(ネルソン・モンフォーね)とフィリップ・キャンデロロとアニック・デュモン。スポーツ中継だから、全体的に見るとトーンは明るく、「よく頑張った!」「なんという頑張り(勇気)!」みたいに讃える調子である。しかし、日本と違って、本当によくしゃべるんだわ、これが。
でも、アメリカ(カナダ)の中継よりはマシだけどね。あの人たちって、静寂があってはいけないと思っているのではないかと思うくらい、よくしゃべる。私は画面に向かって「うるさい!黙れ!見ろ!」と言っていたものだ(苦笑)。フランスは、そこまではいかない。

さて、フランスでもメインにしゃべるのは、もちろんアナウンサー(というかプレゼンター)。
日本ではアナウンサーは、「んーーーサルコウ4回転、決まりました」「演技は後半に入ります」という客観的な説明が主で、自分の感想は少ない。声の調子も落ち着いている。
でもフランスのアナウンサーは、明るい声でよく話し、「うわーっ、これは大変だぁ!」とか叫んでいる。昌磨さんがフリーで2度目に転んだ時は、「ウノ・プロブレム!」とか冗談を飛ばして喜んでいた(注:ウノ unoとは、英語のa/anに相当)。昌磨さんが真剣にすべっているというのに、笑っちゃったじゃないの(笑)。ラテンだわ。

フィリップ・キャンデロロは、あまり話さない。「いるの?」という感じ。
よく話すのは、アニック・デュモンのほう。日本の解説者は中立的な技術解説に徹するけど、フランスは違う。アニックさんは自分の意見とか言いたいことしゃべりまくり。そしてこの人は、明らかに宇野昌磨さんのファン。というか、フランス人は昌磨さんが好きみたい。彼のように構成点が高くなれる芸術性の高い滑りは、フランス人の好みだと思う。昌磨さんの時は、フィリップ・キャンデロロが珍しく話に参加していたしね。

しかし、アニックさんは外しまくっている。
昌磨さんの後にミハイル・コリヤダが滑って「2回転んだけど(色々述べて)昌磨さんより上をいくと思う」と力説。(アナウンサーが「3回では?」と返した。正解は2回です。セ・パ・グラーヴ! :-) )。しかし結果は、晶磨さんのほうが上でした。
これ、平昌の時も同じだった。たぶん声からして出演していたのはアニックさんだったと思うのだけど、昌磨さんが滑り終わった後、点数を待っている間、いかに昌磨さんが素晴らしいかをひっきりなしに話し続け「私は羽生より宇野が上だと思うわ!」と興奮して語っていたが、結果は違った。

しかし、こういうふうに

結構しゃべる男。
しゃべりまくる女。
ほとんど話さない男。

という3人の組み合わせは、実にフランスっぽい感じがする。

確かにこれはスポーツ中継なので、独自のバランス感覚はあると思う。
日本では、解説者の話にアナウンサーが突っ込みを入れることは、ほぼ皆無である。お互いに静かな会話をする。日本の解説者って、自分独自の見解や好みは言わないしね。
でもフランスでは、彼らなりに抑制をきかせてはいるが、そうしている。

そういうのを抜きにしても、一般的に見て、よくしゃべる男と女がいると、必ず割とおとなしい男がいる、という構図。おとなしい女は、あまりいない。

それにしても、フィリップ・キャンデロロ、もうちょっと話してもいいんじゃ・・・。
ほんと「あら、いたの?」て感じ。
発言をめぐっては過去に色々あったらしいが、それでもそこにいる価値のある大スターなのだろう。
(もっとも映った彼は、普通の優しそうな殿方に見えましたが・・・)。

話は変わって、フランスだと、平昌も今回のミラノ世界選手権も、全種目がネットで生中継していた。しばらくの間は、ビデオとしてそのまま見られる。ネット中継のほうが余計な声がなくて静かだし、演技を終わった選手の声とか、キス&クライで話している声も聞こえるので、楽しい。

例えば平昌のとき、ショートが終わってキス&クライに座ったアダム・リッポンが「I love you guys!」と叫んだ。採点が発表されて、彼が両脇に座っている二人の男性コーチを交互に指して「this guy and this guy」と明るく笑って答えた。おそらく他の人が「guysってだれ?」と聞いたのだろう。彼はゲイということだから、余計な憶測を呼んだのかもしれない。
昌磨さんが平昌でフリーを滑り終わって戻って来たときの第一声は「あぶねー」だった。

こんな声を聞けるのは、ファンとしては楽しい。
選手から見ると、油断もスキもなくて、何もかも世界に公表されて嫌かもしれませんが・・・。

日本じゃ、全部をネット中継なんてありえない。
日本は、民放がすごく発達していることからくる権利の複雑さが、最も大きな理由だろう。
こういうところにも、日本とフランスの国家と社会のあり方の違いを感じるが、今回はそういう硬い話は抜き。

ところでいつも思うのだけど、日本って、日本の選手がすべりおわると、まだ息も切れていないのにすぐにインタビューをとるわよね。あれって他の国も同じなんだろうか。

それと演技のあと、どの国の選手もみんな、自国メディアばかりに答えているのかしら。メダルが期待される有名選手もみんなそうなの? どの国の人も? 世界のファンに向けての発信はなし? (メダルをとったメダリストは別です。メダルが確定する前の話)。 

フランスってどうだったかな。そもそも「演技直後のインタビュー」という発想がないような。もっと落ち着いてから話を聞いているのはよく見る(最近はネット生中継ばかり見ているので、確かじゃないけど)。
あと「世界のファンに声を届ける」という意味では、フランス語は、英語ほどじゃないけど一応国際言語なので、フランス語がわかる記者がインタビュー場所に行けばいいだけの話だから、関係ないかも。

まあね、日本は本当にフィギュアが盛んだから・・・。
ミラノの会場も、例によって日本の広告だらけ。日本企業がなかったら、そもそも開催できないのでは、と思うくらい。
いわゆる「芸能界」的なノリで大騒ぎするのは、日本の民放テレビの文化。つまり「芸能界」「スポーツ選手も芸能人的な存在」としての消費。実に独特。
他の国にはそういうの、ほとんどないものね。少なくとも欧州にはない。もっとスポーツとして楽しんで見ている感じがする(もちろん熱狂的ファンはいるけどね)。日本の真似している韓国とか中国にはあるのかも。

やっぱり「民放テレビ」「社会が個人主義か否か」というのが、ポイントかなと思う。

そういうふうに芸能界っぽく盛り上がるのは、悪いことだとは思っていない。楽しめるし、いいんじゃないかしら。いろいろな楽しみ方があっていいと思うし、こういう世界があるからこそ、引退した選手もアイスショーを続けられたり、芸能活動で生活の糧を得ることもできる。

ただ・・・本来はアマチュアスポーツなのに、巨額のお金が動くわけで、そういうしがらみで選手が苦しめられることはないのだろうか。ちゃんとアマチュアスポーツの一線は引かれているのだろうか。

もっともお金のかかるアマチュアスポーツは、企業の援助がないと続けられない。「地元の選手を純粋に応援したい。口は出しません」というような、ものすごく幸せなスポンサーがつくケースは例外じゃないだろうか(あと、出版界にいた私の狭い経験で言えば、航空会社はかなりラクで制約が少なく、かつ便宜は多いありがたいスポンサー。羽生さんにANAがついているのは、そういう意味で羽生さんのために本当によかったのではないかと感じじる)。

でもそういうのは例外。民放テレビで芸能界的に盛り上がって宣伝効果が期待できるからお金を出すわけで・・・。そういうお金があればこそ、アマチュア選手が強くなることもできる。そうすれば国のメダル数が増える、となる。

でもね、「日の丸を背負って」って、どうなんだろ・・・。
この表現や、このプレッシャーをフランス人が知ったら「極右みたい(笑)」というかもしれない。逆に極左や独裁国家的、とも言える(国のメダルのためにドーピングをやっているソ連ーロシアみたいな国のこと)。
そりゃ、どこの国の人だって、自分の国の選手がメダルをとれば嬉しいよ。地元で祝勝パレードをする場合もあるでしょう。「日の丸を背負って」って、表現はソフトになっているけど、結局「国のために戦う」「国のためにメダルをとらねば」ってことでしょう? そんな発想、西欧とか北米みたいな先進国にあるかな??? 私はないと思う。

(厳密に言えば、スポーツによって違うでしょう。あとオリンピックは夏のほうがそういうプレッシャーが強そう)。

それと「楽しんで」「楽しみたい」ってすぐに言うよね。

あれはきっと、昔はもっと「お国のために!」「必死でやれ!」みたいな感じが強かったみたいだから、対抗として現れた文化というか発想なのだと思う。「お国のために」とは言わずに「日の丸を背負って」という婉曲表現になったのも、そういう時代の流れなのだろう。

でもね、猫も杓子も「楽しんで」って、何よ・・・と私は思う。
もっと自分の表現はないのか。
別に、「独特の個性的表現をしろ」と言っているのではない。
なんかこう、社会に言わされている感が、私は気に入らない。

こういうふうに言っておけば無難だろう、叩かれない、というのはあるのだろう。
それだけ日本は、スポーツ選手が芸能化という消費社会にどっぷり入り込んでしまっているので、何かあるとすごい勢いで集団で叩かれるので、こうなるのかもしれない。
もともと「日の丸を背負って」という発想があるほど、集団主義が強い国だし。

私はそういう、社会も個人も右にならえ、というのが好きじゃないのだ。
はっきり言うと、嫌いである。
でも、オリンピックに出るような選手はみんな10代とか20代前半が多くて若いから、社会の風潮に従って、なんとなくそんなふうに言ってしまうのは仕方ないとは思うのだけどね・・・。

私は芸能界が好きじゃないので、よけいに好きなスポーツの芸能化は考えてしまうのかも。
芸能人が集まって騒いでいる番組にはまったく興味がないので。

「ヴァイオリンのためのソナチネ」がソチで使用されるということで、新垣隆氏がカミングアウトした、あの佐村河内守の騒動のとき、佐村河内を擁護するどころか「ゴーストライターは引っ込んでろ!出てくるな!ずうずうしい」みたいな感じの芸能人が多いのには本当にヘドが出た(汚い表現ですみません。私がこんな汚い表現使うのはものすごく珍しいです)。
みんないかに、ゴーストライターを使っているのかが見え見えになった。
使うなら使うで堂々としてればいいのに。
佐村河内もそうだったが、彼はプロデューサーとして名乗っていれば、なんの問題もなかった。
芸能人だって同じ。ゴーストライターが書いたシナリオどおりにしゃべっているのだとしても、作詞作曲と歌手が別の人でも普通なように、堂々としていればいい。
そこにあるのは「自分が目立ちたい」「自分の才能だと思われたい」という曲がった欲。
ああ、嫌だ、嫌だ。
ふなっしーが流行って、ふなっしーに「いくらもうかっているか」と聞く芸能人も山ほどいた。視聴者は純粋にふなっしーを愛していたのに、あれも芸能人の品性を見る思いで嫌悪感がわいた。カネと嫉妬。
ああ、もう本当に嫌だ。

でも「マツコの知らない世界」「お宝鑑定団」みたいな番組は大好き。最近では「池の水を抜く」とかね(笑)。あのワニガメは元気にしているかな。故郷から無理やり引き離されて日本に連れてこられて、気の毒に・・・。

例によって話がそれました。

フィリップ・キャンデロロは、こんな風にたまにテレビに出ていますが、他の国の引退した選手たちはどうしているのかな。

今日はこのへんで。

ついしん1: あのキス&クライの背景の絵。確かに美しい。ドゥオーモなのはわかる。座るとちょうどイスみたいに白い尖塔のところがくるのも、デザイン的に考えていると思う。でも、真正面にまるで十字架=宗教に見えるようなものが来るって、どうよ。もちろん、「あれは建築デザインです。宗教じゃないです」と文句はつけにくい線でつくってあるのはわかる。うーんイタリアだわー。フランスだと、ないかもしれない。
メダル授賞式の女性たちの服装もすごかった。美しい。ルネッサンス風衣装と現代風衣装(白)の女性に分かれていた。6人全員衣装が違った。さすがデザイン大国。でも、はりきりすぎでは・・・(笑)。

ついしん2:他に書く機会がなさそうなので書いてしまう。私は「オリンピックという売買春問題」というテーマには関心をもっている。それは女性の平等と保護と権利に強い関心をもっているからだ。(世界「男女平等ランキング2017」で調査対象144カ国中、111位というサイテーの日本でこういうこと言っても、嫌がられるだけだけどさー)。だからソチでの東ヨーロッパから来た女性の売春問題は結構知っている。売春が組織化されていて(マフィア)、貧しさから身を売る東欧の女性たちの問題だった。
平昌ではどうだったのだろう。語られていたのは、北朝鮮の美女軍団ばっかり。日本のメディアはメダルの数は気にしても、こういうことは何も語らない。さすが男女平等最低ランクの国だけのことはある。
生々しい話だが、極度の緊張をせまられるアスリートには、心身のバランスのために、セックス・性欲処理を必要とする男性がいるのだ。戦争で、占領したばかりの地で兵士による集団レイプが起こるのも、同じ理屈だ。
選手村に、避妊具が置かれていることもある。女性にも性欲があって、選手同士で一夜の関係をもったりするらしいが、それは売買春の問題ではないので、あまり関心がない。
どちらにせよ日本選手は関係ない・・・のかな。だって、ママと一緒にやってきて、ママの手作り料理を食べているらしいから。なんだかなー・・・。
アマチュアだから仕方ないかもしれないし、それで体調管理が万全になれるのなら、今までの成果を出し切れるのなら、それもアリなのかもしれない。仕方ないね、好きにして、ということにしよう。
でも、ママの付き添いは「お母さん、頑張っているんですねー!」って美談で語る話なのか?? もう成人した男なのに。そんな選手、他の国にいるのだろうか。
まあ・・・みんなただでさえ若い上に、小さい頃からそのスポーツ一筋でやってきているから、世間知らずなのだろう。マフィアも、そういうアスリートの若さと世間知らずに付け込んでいるのかもしれない。

ああ、なんだか袋叩きにあいそうなことを書いてしまった。でも、日本人はオリンピックの時は特に、二言目には「努力」「目標に向かって」と耳にタコができるほど言いたがるが、目標に向かって努力しているのなら、他の環境はどうでもいいのか、と私は思ったりするのです。
私がそう思うのは、留学生と会うことが日常茶飯事で、今までたくさんの留学生に出会ってきた環境にいるからだと思う。
外国生活で悩みをもつ人は多い。うまく交流できなかったり、言葉が話せなかったり、なじめなかったりで、日本人だけで固まるとか、ウツになることも。
でも大人はみんないう。「いろいろなことを積極的にやりなさい。積極的に現地の人との交流に参加しなさい。自分の殻に閉じこもっていてはいけません。失敗してもいい。若い時のそういう体験はとても大切なことです」と。私もそう思う。
選手を「日の丸を背負っている」「メダルという目標に向かって努力する素晴らしい人」と見て特別扱いして、選手の一人の人間としての自由と自立の問題に目をつぶるのはいかがなものだろうか。

ハビエル・フェルナンデスは、カナダという外国で自立して生活しているが、それでも立派にオリンピックで銅メダルをとり、世界選手権で2度もチャンピオンになっている。「可愛い子には旅をさせろ」である。でも、彼は特別なのではない。欧米では、成人すればこうやって自立するのが当たり前なのだ。彼は当たり前のことをしているにすぎない。どうしても、日本の社会の特殊性を考えずにはいられない。周りが助けるのはいいが、やっぱりママがオリンピックにまでついてきて、あれこれ世話をやくのを美談で語るのはいかがなものかと思う。

選手は言うかもしれない。「私が金メダルを取りたいんです。そのために母が協力してくれるのに、何がいけないのですか」と。そうしたら私は、選手の純粋培養ぶりに、うなだれて涙ぐんでしまうかもしれない。

日本の選手のみなさんは、本当に受け答えも優等生で、謙虚で立派な人が多い。家族の教育が行き届いているのかもしれない。だから一面を見て批判するのは行き過ぎかもしれないとは、自分で批判しておきながら思う。

それに、あんな日本の芸能界やメディアであっても、スポーツのアマチュア選手に対しては、それなりの、多少の自制のようなものが働いている部分があるのは認める。
そういう部分と、選手はみんな「とっても良い子」という事実で、人々は安心して見ていられるという側面はあり、だから教育的に推奨もできて、幅広いファンもつくというのは否定しない。

でも、なんというか・・・私は哀れさを感じることがよくある。「良い子」すぎて。「良い子」を強制されているというか。もっと自由でもいいじゃないか。才能があるなら、なおさらだ。
ただそれには自立がセットでならなくてはならない。もう子供じゃないんだから。才能があろうとなかろうと、大人はみな同じ。
才能があって高みにいる人しか見えない光景があるはずだ。
「みなさんのおかげで・・・」はわかった。感謝の意はもう十分伝わった。
凡人にはわからない、オリンピックや世界選手権レベルの人ならではの経験や感じたことがあるはずでしょう? それが「うぬぼれ」「偉そう」「上から目線」に聞こえる内容であっても、私はそれが聞きたいし、知りたい。

若くて才能があって有名で舞い上がると、たくさん変なことをするかもしれない。でもいいじゃないか。私は、若い選手が変なことや愚かなことをしても、苦笑はしても叩かないよ。人権侵害に関わる差別的な内容ではない限りはね。微笑ましいし、そのほうが多様性があって面白いと思う。

いつも保護者付きの「たいへん良い子」と、自立していて「自由に言動する子」では、日本社会では、アマチュア選手だと前者でないと受け入れてもらえない。「日の丸」とか「チーム日本」という名前の責任を背負わされるから、良い子じゃないと困るからね。それに、ちょっとでも偉そうなことを言おうものなら、集団で叩かれてしまう。だから、一人の人間としての自立なんてどうでもいいの、大の大人にいつもママがくっついていても「良い子」なほうがいいの、多様性なんかなくてもいいの、だからお国のためにメダルをとってきてちょうだいーーというのは言い過ぎか。

日本どっぷりの日本人にいってもわかってもらえないかもしれない。渦中にいる人は気付かないから。何かの枠にはめられると、はめられていることも気づかないし、枠にはめられたことしか考えられなくなってしまう。多様性のとても少ない日本社会。まあ・・・スポーツ選手だから、身体表現や成績が一番重要なのであって、結局他はどうでもいのかもしれないけど。

はた、と手がとまり「なぜ私はこんなにムキになっているのだろう」と思う。自分でもよくわからないが、要するに私は、選手を批判したいのではなく、日本の社会を(例によって)批判したいのだと思う。動機は簡単だ。さっきも書いたように、私は日本の「良い子」の選手を見ていると、なんだかかわいそうになってくるからだ。

あんなに才能のある方々なのだから、私なんかに哀れんでもらわなくても結構、才能のある方々には彼ら独自の重荷がある、若くして大変なのだから、家族の協力が不可欠そうなのもわかっている。

でも選手は、現役時代は短く、引退してからのほうが人生は長い。
彼らはどうするのだろう。オリンピックでメダルをとった人だって、食べていくのは難しいのがアマチュア選手。スケートだとアイスショーとかあるけれど、あれだって頑張っても40歳くらいまででしょう。次から次へと新しい選手は現れ、人々の記憶は薄れ忘れっぽく、人気はうつろいやすく、スポーツ選手は体が動かなくなっていく。でも、フィギュア選手はお金持ちの家の子供が多いらしいから、関係ないのかしら。。。

アマチュアスポーツって難しいですね・・・。

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