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ブザンソンの事件その5

犯人の国籍など、新たなことが公表され始めている。
色々書きたいことはあるのだけど、今回は一つだけ言いたい。
ここ数日、ずっと思っていたことだ。

おい、トビタテ留学JAPAN!。
何ごともなかったかのように、公式ホームページでもフェイスブックでも完全無視、完全スルーというのはどういうことだ? 被害者はトビタテ留学JAPAN! に登録している人なんでしょう?

捜査の段階とはいっても、「事件に巻き込まれて行方不明になっている。 一同みんな心から心配して、無事を願っている」くらいのことは書けないのか。

役所には役所の論理があるだろうし、たくさんの会社からお金をもらっているみたいだから、簡単に動けないという事情がありそうなのはわかる。でも、完全無視というのは、完全に他人事、無責任のように見える。

「報道されていないからみんな知らないだろう」と思っているなら、甘いんだよ。特に若者はネットでみんな知っている。こんな他人事のように無視で関係ない態度なんて、人として許されると思っているのか。

トビタテ留学JAPAN!に関心のある若者は、みんな見ていますよ。みんなあなた方の態度を知っていますよ。

私個人は、別にトビタテ留学JAPAN!に組織としての責任があるなんて思っていない。そこまで管理できない、被害者の彼氏や友達が危ない人だなんて見抜けるわけがない。それでもまあ、組織の責任を追及する人は必ず出てくるだろうけど。。。(そのほうが健全ともいえる)。

それよりも「ひと」を送り出す組織なのに、この他人事のような無関心な態度のほうが腹がたつ。

「カネを出すだけの組織」なんですか。
カネを渡しているだけだから、それ以上のことは関係ない。
そういう風に見えますけど。
まあ「そうだ」とおっしゃるなら、そのとおりですけどね。

なんだか日本人が劣化していると感じました。
たった一言「安否がきづかわれます。一同無事を願っています」だけのことが書けないとは。

しっかりしなさい。
あなた方が見るべき相手は、お金を出してくれる企業や、官僚や役人や政治家たちなんですか。それとも、これから外国に勉強をしにいきたい、見聞を広めたいと考えている若者たちなのですか。

追記 フランス警察は、正式に「殺人」と認め、来週の火曜日に記者会見を開くということです。それでも黙っているんですかね?

ブザンソンの事件その2

飲み過ぎ食べ過ぎのクリスマスイブでした。

でも、この事件のことが頭を離れない。

日本では、25日朝になって、いろいろ情報が出てきた。

日本テレビが、地元新聞の記者の口を借りて、犯人像を語り出した。
「男は非常に賢く、病的なところもある。彼女がブザンソンに来る前にSNSを通じて知り合ったようだ」と。

あとTBSが、指揮官の言葉として「時計職人のように緻密だった」と。
以下、ほぼ引用です。
「携帯電話を何台も持ち、彼女が行方不明となった今月4日の数週間前から単独で行動していて、ホテルや民宿などを何度もかえ、彼女とラインで英語で会話する近しい知り合いのような関係だったと明らかにしました。」
「(男の携帯電話の位置情報から)彼は人があまり行かない場所にも行っています。川沿いや森の中など・・・」(事件担当の地元警察幹部 ミエール氏)
 「(取材で)印象的だったのは容疑者の精神分析の話で、警察が何度も容疑者のことを“賢い”と表現していたことだ」(地元紙 グラフ記者)

本当にそうで、フランスの報道では、何度も「賢い」という言葉が使われている。それは警察の人が発している言葉。

すでに2日前の情報で、警察は犬やダイバーを使ったりして捜索しているとあった。日本のメディアは「行方がわからない」という表面の姿勢を崩していない。でも、フランスのメディアは2日くらい前からはっきりというようになっている。

ここからはフランス語の話になる。

例えば、NHKローカル局に相当するテレビでは、記事のタイトルが以下になっている。
 L'étudiante japonaise disparue a été tuée selon la police.
ここで a été と使っていることに注目したい。
「え、過去形でしょ?」と何の疑問にも思わないだろうか。

一方で、地元新聞でこういう一節がある。
Le duo serait ensuite repassé par la chambre de la Japonaise.
ここでは、serait repasséになっていることに注意。
était ではなく、serait である。
これは条件法過去。普通の過去形ならétait repasséです。

この違いがわかりますか。

前者は普通の過去形だから「事実・断定」であり、後者は条件法過去だから「おそらく」という「推測・推定」になるのです。

それともう一つ。
同じく地元新聞が書いているフレーズ。
Elle y dînait avec son bourreau présumé.
ここでも動詞のdînaitに注目してほしい。
「半過去でしょ」。そのとおりです。なぜ半過去かわかりますか。
「夜ご飯をたべている時間に幅があるから」と答える人はいるでしょう。
もしこれが「夜ご飯をたべている間に、電話がかかってきた」などの文なら、この答えは正解です。実際、ここでも時間幅のニュアンスについては否定しません。
でもこの文は、単独で使われていることに注目する必要があります。
なぜElle y a dîné と、普通の過去形ではないのか。
これは書き手の側に、主語の人物がもう亡き人という意識があるからなのです。
感覚の域なので、文法書には載っていないと思います(決まりというわけじゃないので、載せようがない)。
超上級のレベルなので、知らなくてもいいです。

なぜ記者たちがこのように書くかというと、情報源の警察がそういうからでしょう。
でも、前に指揮官が言っていた「行方不明になったのは4日。残念ながら、もう亡くなっていると思う」くらいの根拠しかなければ、メディアは

L'étudiante japonaise disparue aurait été tuée selon la police.

というふうに、aurait été tuéeという条件法(推測・推定)を使うはずなんです。
実際、他の断定しかねる情報では、上記のように条件法を使っています。

なぜ普通の過去形(事実・断定)を使うのか。
犯人がつかまったわけでもない、被害者がみつかったわけでもない。
私はそれがずっと疑問だった。
何か警察は、断定できる証拠をもっているとしか思えない。

地元新聞によると、日本の記者たちは「日本では、被害者が発見されないかぎり行方不明という。なぜフランスの警察や報道は死亡と言うのか」と言っているという。
言いたいことはとてもよくわかる。でも、これは言語の違いからくる文化の違いではないだろうか。フランス語としては、上述したように、条件法を使っていないことのほうが大事だと思う。日本語は、そういう構造をもっていない。言葉を変えたり付け加えたりしないといけないのだ。
とはいえ日本人に一番ショックなのは、tuéeという言葉を使っていることなのに違いない。ただ、文化の違いはあれど、そう言えるだけの証拠がなければ、警察は決してこうは言わなかったと思うのだけど。

すでに報道されているように、この男は病的だという。「病的」と訳された言葉はpsychopahte、英語でもほとんど同じ語である。犯人のこの資質に言及するのに、報道は警察の言葉として、もう少し詳しいことをいくつか挙げている。でも、tuéeと断定させた証拠に関しては、一切公表していない。

最後に。やっぱり英語で話をしていましたか。。。
彼女は、英語圏に留学したことがあるのかしら。なんだかそんな感じがするのは気のせい?
でも若いのだから、多少の留学経験では、外国の危険を知ることはできなかったでしょう。日本人は、特に女性は、チャレンジをやめる必要はないけれど、もう用心しすぎるほど用心するしか自衛の方法がないのだ。でも用心してもダメなときもある。まったく無防備な人に何も起きないこともある。

情報が錯綜しているが、フランスから電車で出て、その後欧州の外に飛行機で出たという報道があった。これだと、一気に行ける場所が広がる。私は前述したように、英語を話す先進国出身の人ではないかという気がしていて、欧州から見て海の向こうの某国の人じゃないかという気がするのだけど、飛行機で出て行ったのなら可能性はないわけではない。とにかく早くつかまえてほしい。


きしむ時代に生きる

今週の月曜日から、急に寒くなって、雨が降って、どんよりして・・・。
ああ、パリの冬がやってくると思った。
今年は例外的に暖かい日が多くて、お陽様を見る機会が多くて、精神的にはとてもよかったのだけど。

1年前にテロが起きたのも、こんな日々だった。
あれからニースでもテロが起きた。
私の住んでいたニース、そしていま住んでいるパリ、二つの街で起きた大きなテロ。

人々はもう忘れたかのように、普通の日々を過ごしている。

火曜日、カレ地方のジャングル(移民村。貧民窟となっていた)の解体がはじまった。
大学院のイタリア人の友達SがFBを見なくなったので、もしやと思ったら、やっぱり赴いていた。
今年から私のいる大学院に入ってきて、なぜかすぐに友達になった。
私は移民に関して、ウイともノンとも言えない。
どちらの気持ちもわかるからだ。
でも彼は、移民の人権のために闘う人だった。
自分が外国に勉強に気軽に行けるように、彼らだって行きたいところに行く権利があるはずだ。
彼の言うことは、私の心を揺さぶった。
わかっているけど・・・踏み切れない私。
それでも私は、平等のために闘う人を支援することだけはしてきた。
平等、人権のための闘い。

パリにはそういう人が多い。
そういう人が集まってくるのだ。
先生もそう。
去年、「政治史」を担当した先生は、高齢で、共産主義を教えていた。
今年は同じ授業で先生が変わったけど、この人はある有名な飢餓支援団体の長をやっている人。
まだ40歳くらいで、教授としては若い。
この人の思想にも、明らかに共産主義の影響を感じる。
というよりは、共産主義は、もともとフランス革命が母体になっているのだ。
革命精神というべきなのかもしれない。

人間は平等だ。
すべての人間には、平等に生きる権利がある、と。
そういう精神を体現している人が、パリには集まってくる。
そういう精神が、パリにはある。

「パリで生きた人は、生涯パリを忘れることができない」とか。。。
なんだかそんなセリフがあった。誰の入ったセリフだったか。

もうすぐテロから1年がたつ。
イスラム教徒との対立。
まだまだ次から次へとやってくる移民。

それでも欧州連合を勉強する人は、夢をもっている。
彼らにとって、欧州連合は、一つの理想なのだ。

一人ひとりにとって欧州連合とはなんなのだろう。

学生は若いから、それだけで明るい。くったくがない。
でも、すべてがそうであるわけではない。
一人ひとり心にもつ思いがある。

大陸がぶつかりあってきしめくように、文明がすさまじい音をたててきしんでぶつかりあっている。
闘う者もいれば、ヨーロッパの中で夢見る者もいる。

すさまじい時代に生きていると思う。

そして日本は、中国がフィリピンを使って、米日の分断をはかる作戦に気づいていない。
恐るべき自覚を迫られている日本なのに。

これが私たちにとっての「In Our Time」だと思う。

アーリア人 (2) コーカサス人=白人の謎

さて、今回は「コーカサス人」の謎について考えてみます。

なぜ白人=コーカサス人(コーカジアン)になったのでしょう。
この用語は、いまだに使われているようです。

(1)にも書いたように、フランスでは警察の調書などには使われているようです。全く知りませんでした。聞いた事なかったです。アメリカでは、公的な出身エスニック調査に使われているようです(州によって違うらしいんですが、このあたりの事情に詳しい資料はないでしょうか)。
この行為はフランスでは法律違反なので、よけいに私は聞いた事がなかったのでしょう。

今回はきなくさい話になってきます。書くのにものすごく神経を使いました。
私は専門家じゃないので、自分のリテラシーを頼りに、これは一般的に受け入れられていることだろうと判断したことだけを取り上げて、自分なりにまとめてみました。

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白人=コーカサス人(コーカジアン)。
現代では当の白人ですら、何のことだかさっぱりわからないという、この言葉。

初めて「白人=コーカジアン」という言葉を使ったのは、Christoph Meiners(1747 – 1810)というドイツ人でした。この人は哲学者であり、歴史家です。自然科学者とも言われます(言われないこともあるようです)。

彼は、人間の種類を、「コーカサス人」「ネグロ人」「モンゴロイド人」などに分け、さらに欧州の各民族(ケルト人、スラブ人など)を分けて評価を加えたそうです。

ある意味、この人が「世界で最初の人類学者」と呼べないこともないのに、彼に関する資料は、ネット上では極端に少ない。他の人はもっといっぱいあるのに。書いている私も、ここまで資料どころか、資料をたぐるための良いヒントすら出て来ないと、本当に書きにくい。あえて無視されているような存在に見えるのです。

なぜかというと、あからさまな人種差別主義者だったからです。
彼は白人は美しい優れた人種で、黒人は醜く劣った人種と主張したのです。

それでも、この人が後世に残した「学問的」に大きな影響はあると感じます。

それは「人間の祖先は一つではなく、人種によって別々である」という概念を提示したことです。

それまでは、この「世界」(欧州、北ヨーロッパ、オリエントあたりまで)において、人間の先祖はたった一つのカップル、アダムとイブだと思われていたのです。
アダムとイブは、旧約聖書に出て来るお話。この「世界」に住む人は、みな一神教です。ユダヤ教→キリスト教→イスラム教と、みんな旧約聖書を読む人たちでした。

コーカジアンとは関係ない、黄色人種の日本人の私から見ると、「人間の先祖は白人でアダムとイブ」という考えは、大変かたよってみえます。というか、ついていけません。分けるだけ進歩のように見えてしまいます。

肝心の「なぜコーカジアンか」についてです。
理由はいくつかあるようです。

まず、ノアの箱船。これも旧約聖書のお話です。神は堕落した人間に怒り、洪水によって人間を滅ぼす事にしました。ノアの一家は正直だったので、前もって神は「船をつくって、すべての動物を一対ずつ船に乗せろ」と知らせてくれたのでした。

人間はみんな、洪水で死んじゃったのですから、今行きている人間も動物も、みんなノアの箱船に乗った人たちの子孫ということになります。ノア一家は、アダムとイブの末裔です。

この箱船がたどりついたのが、アララト山と言われています。
アララト山というのは、現在はトルコにあります。アルメニアやイランとの国境の近くでもあります。
山が一つどんとある訳じゃなくて、山岳地帯なんです。このあたり一帯が「コーカサス」と認識されているわけです。

それから、ギリシャ神話にもアララト山は出てくるようです。人類に火を与えたプロメテウス。彼は神々の王ゼウスの言いつけに背いて、火を人間に与えたために、山にはりつけにされました。毎日ハゲタカが彼の臓物をついばみにきます。でも彼は不死なので、死ぬ事ができません。永久に苦しまなくてはならないのです。この「貼付けにされた山」がアララト山だというのですね。

ちょっと話がそれますが、プロメテウスの話(ギリシャ神話)にも、洪水が出て来ます。旧約聖書にも出て来る。シュメールの粘度版やギルガメシュ叙事詩(メソポタミア)にも出て来るそうです。異常な大洪水は本当にあったに違いありません。昔のお話というのは、史実と創作が混ざっているのが普通なのでしょう。日本書紀もそうです。どれが史実でどれが創作か、いまでも研究がずっと続いています。

さらに言うなら、西洋人にとって最も古い文献は、ずっと旧約聖書だったのです。それが、ハンムラビ法典(メソポタミア文明)が発見されて、もっと古いものが存在するとわかった。このような考古学の発展が、新しい思想の誕生に貢献したのは間違いないでしょう。まだ確認をとっていませんが、確信しています。


話は戻って、アララト山というのは、大小二つあるのですが、本当にきれいです。富士山みたい。写真だからきれいなものがネットにアップされているのでしょうが、それでもね。
やっぱり、神話に登場させたくなるには、美しさがないと。美しくないと、ものがたりは生まれません。それに高い山というのは、何か人間が近寄りがたい、崇高なものを感じさせます。日本人は富士山をもっているので、この気持ちはわかるんじゃないでしょうか。
そびえたつアララト山の美しさも、「白人=人間の起源」にしたくなる原因だと思います。


もう一つ面白い「コーカジアン=白人」説の理由をみつけました。
オダリスクが原因だというのですね。
オダリスクというのは、イスラムの君主のためのハーレムに仕える女奴隷あるいは寵姫のことです。
絵画でもよくテーマになっていますが、アングルのルーブル美術館にある絵(グランド・オダリスク)が有名です。


これが描かれたのは、1814年でかなり後のことですが、18世紀からこのテーマは描かれ続けて来ました。トルコのハーレムにいる白人女性という設定なんですが、トルコというエギゾチズムと、やたら色っぽい白人女性の取り合わせが主題です。
この女性達は、コーカサス出身だそうです。ロシア人がコーカサスの女性をトルコに渡した、あるいは売ったのだそうです。さらわれた人もいたようです。

ちょっとこの話は複雑で、ここでとまってしまいました。


あまり長々もっていても仕方ないので、ここで続く。


シリア難民とスコットランド人にびっくり

お久しぶりです。
なんだか忙殺されてました。

この前、テレビでフランス対スコットランドのラグビーをやってました。
最近、ラグビーって面白いなと思うようになったので、テレビでやっていれば見るのですが。
抱き合って喜ぶ3人のスコットランド選手がアップに。
びっくりしました。

こ、、、これは、フランス人??!!!
そっくりだよー。

フランスの伝統的な、どっちかというと北っぽい白人の容姿。

そりゃイングランドだって、同じ白人だから似ているし、イングランド人だかフランス人だか見分けがつかないような人もいますよ。でも、全体的には「あー、フランス人とは民族が違うな」と思わせる容姿なのです。

それにひきかえ、スコットランド人。フランス人と見分けがつかない人が多い。スコットランドに行ったときはそrほど思わなかったけど。

これは・・・やっぱり同じ系列の民族なのだろうなあ。

民族の定義というのは難しい。歴史、文化、宗教、言語、血統的な違い。それに国が入るから、めちゃくちゃである。

スコットランド人は、「ケルト人」であることを誇りに思っている。文化も「私たちの文化はケルト文化です」とアピールしたがる。つまりイングランド人とは違うと言いたいわけです。実際に歴史を見ても違うのだけど。
スコットランド人は、とてもフランス人に好意的である。歴史的にも文化的にも近い人たちと思っているのだろう。

確かに、フランス人は「自分たちの先祖はゴロワだ」ということがある。ゴロワとはケルトのフランス語読みである。シーザー(カエサル)は、今のフランスの地を征服して「ガリア戦記」という本を書いた。ガリアとは、ケルト(英語)・ゴロワ(フランス語)のラテン語である。
(ちなみに「先祖はゴロワ」の文句は、戦後までは教科書にあったのだけど、政治的に正しくないということで、今はない)。
要するに、スコットランド人もフランス人も、ケルト民族の系列だということなのです。

文化や歴史だけじゃない。本当に似ているよ。そっくりだよ。。。これがケルト民族の顔なのか?

次の日。

フランスとセルビアでサッカーがありました。
前日のラグビーではフランスが赤、スコットランドが青だったのだけど、この日は逆で、フランスが青、セルビアが赤でした。あーややこしい。

じっと顔を見ようとする。サッカーって、ラグビーと違って、選手の顔がアップになることが少ないし、選手に肉薄してカメラが追うことも少ない。遠いカメラばっかり。つまらん。

でもたまに映るのを、じっと見てみる。まあ同じ白人だから、区別がつかないほど似ている人もいるけれど、やっぱり顔が違うなあと思う。セルビア人って、スラブ人ともなんだか顔が違うわよね。やっぱり民族の血統ってあるなあ・・・と思うのでした。

さて、話は変わってシリア難民です。

もう1か月以上も、ヨーロッパでは毎日のようにニュースで流れている。私は大変興味があるので、新聞もよく読んでいる。日本人から見たら「なんでそんなに知っているの」というほど詳しくなってしまった。

シリア難民をみていて、、、びっくり!!!

こういう顔の人、南のフランス人にいるわよね、と思える人が結構いた。
元々というよりは、南フランスは歴史的に移民が多くて、特に戦後は移民と混ざっている人が増えたせいだと思う。この人たち、服装をフランス人ぽくしてそのへん歩いていたら、フランス人に見えてしまう、と思う人が結構いる。明らかにアラブ人と顔が違う。


私はあっちに詳しくないもので

北アフリカ → アラブ人とベルベル人がいる。
中東 → アラブ人
イラン →この人たちはペルシャ人でちょっとアラブ人と違う
(トルコ →トルコ人)

といった認識しかありませんでした。。。すみません。

そうよねー、イラクとかシリアって、メソポタミア文明の地。
トルコとイランに挟まれて、そこだけアラブ人って変よね、と今さらながら、自分の認識がいかに未熟で無知だったかわかりました。お恥ずかしい。

もちろん実際はたくさんの民族が混ざっているのでしょう。メソポタミアは交通の要衝で、古代からずっと混ざって来たのです。

でも、あそこまではっきり顔立ちがアラブ人とは違う人たちがいるのを見ると、確かにこの人たちはヨーロッパ人と先祖が同じなのかもしれない、みんなまとめてアーリア人なのか??? と思えてしまう。

(繰り返しますが、シリア難民全員じゃないです。そういう人も結構いる、という話です)。

このブログで書き始めた「アーリア人の謎」が途中で進んでいませんが、、、いやあ、、、なんだか本当にびっくりしました。アーリア人の謎=メソポタミアの謎 ですね。日本人が「日本人の先祖はどこから来たのか」と探りたがるように、ヨーロッパ人も先祖を探したいのです。メソポタミア、恐るべし。

もしもう一度人生があるのなら、その時はメソポタミア研究者になろうっと。
ほんと、あそこは面白い。

ベラスケス展に行きました。

パリのグランパレで、ベラスケス展をやっています。
メトロの広告で、展覧会の広告に「終わり間近」のシールが張ってあったので、「あ。そうだ。行かなくちゃ!」と思って行って来ました。

velazquez.png

ここ最近ずっと忙しく、やっと時間が出来たし、しかもかなりシビアな内容で忙しかったので、何か気分転換になることをしたいと思っていたので、ちょうどよかったです。
彼の作品だけじゃなくて、師匠さんとか、お弟子さんとか、同時代の人の作品もありました。

見ていて思ったこと。
なんだかちょっと印象派みたい。テーマとかタッチとか、女性の柔らかさや優しさのイメージとか。

スペインで裸婦の絵があるなんて、驚いた。「鏡のビーナス」という作品なんだけど。最初、まったく違う時代の違う絵が1枚まぎれこんでいるのかと思った。アングルのグランドオダリスクを思い出す。こういう裸婦像っていうのは、ベラスケスの前の時代にもあったのかしら。

肖像画コーナーは、秀逸でした。バックが黄土色っぽいもの一色で、写真館で撮った写真みたい。マネの「笛を吹く少年」なんて、これはもう完全にベラスケスの影響だな・・・と思った。

後で調べてみたら、ベラスケスは印象派の画家にすごく評価を受けていたそうです。心から納得。

若い頃描いていた、マリア様や聖女の絵とかは、とても水みずしくて美しい。

でもやっぱり心を打つのは、なんといってもフェリペ4世(1605-65)の一家の肖像画ですよ。
フェリペ4世は、スペインの王様。
ベラスケスは宮廷画家で、王家の子ども達の絵の先生もしていたのでした。

彼が描いたこの一家の絵が、もう・・・。
思春期で死んでしまった王太子バルタサール・カルロスの子どものころの絵。
妹のマリア・テレサ王女。後にルイ14世の妃になる。

この王女にそっくりなのが、いとこのマリアナ・デ・アウストリア皇女。
いとこのマリアナ皇女は、もともと王太子バルタサール・カルロス、つまり王女のお兄さんに嫁いでくるはずだった。ところが、お兄さんが16歳で死んじゃったものだから、なあんと、お父さんと結婚してしまったのだ! 本当なら「お義姉さん」になるはずだったのに、「お義母さん」になってしまった。。。しかも、年はたった4歳年上なだけ。ちなみに王太子の死因は、虫垂炎らしい。

気の毒なのは、いとこのマリアナ当人だ。14歳で44歳のおっさん(失礼!)と結婚。本当なら5歳年上で釣り合いがとれている彼の息子との結婚だったのに。。。

この二人の王女・皇女の肖像画が、展覧会で並んでいるのですね。もう見分けがつかないほどそっくり。長い顔の感じとか、ちょっとあごがしゃくれている感じとか(「ハプスブルクのあご」というやつですね。お父さんのフェリペ4世は、それはそれはもう長くて、しゃくれています)。
当時の髪型、服装が似ているせいもあるけどね。私も混乱してわからなくなっちゃったので、少し戻って、肖像画コーナーの最初にある説明書きをじっくり読んで、やっとわかった。他の人も、「あら・・・これは違う人物だわ」とかクレジットを見て言っていたので、似すぎて混乱したのは私だけじゃないと思う。
(各コーナー最初の説明は、フランス語と並列して英語とスペイン語も書かれていました。こういう説明って、英語のほうがわかりやすいと思う。ただ、英語だと人の名前が英語風になっちゃって、よけいにわからなくなるという欠点がある)

でもまだこの二人はいいのだ。
一応そこそこ長生きしているし。
泣かせるのは、他の子ども達の絵だ。

フェリペ4世は、政治家としては特に才能もなかったし、関心もなかったようだ。
でも、いい人だったらしい(まあ究極のおぼっちゃん育ちだから・・・)。
彼の宮廷は、不幸の色にまみれていたのだ。
不幸とは、子どもが生まれては片っぱしから死んで行くという不幸だ。

みんな、すごい勢いで亡くなっている。
先妻はフランス王アンリ4世の娘で、8人子どもを産んだ。
しかし、5人はすぐ死亡、1人は2歳で死亡。
もう1人は前述した王子で16歳で死亡。青空の下、威厳すら漂わせてポニーにまたがっているベラスケスの絵が有名だ。個人的には、展覧会で、これが一番良い印象のある絵だった。最後まで見て、もう一度これを見に上に上がって行った。元馬乗りの私が断言しますが、ポニーがあんなに跳躍するはずはなく、イメージで描かれた絵だったのだと思うけど、少なくともこの王子は、馬に乗れるほど健康だったのだと思う。

poney.jpg

唯一長生きしたのは、前述した王女マリア・テレサ。ルイ14世に嫁ぎ、夫には顧みられず女性としては幸せではなかったようだけど、45歳まで一応生きた。彼女の生んだ子どもがフランス王家をずっとついだ。

王太子が亡くなったあと、宮廷は悲しみに沈んでいたという。
でも、なんとかしなくてはいけなかった。
たった一人の息子が死んじゃったのだから、跡継ぎがいない。
幸い(?!)妻には先立たれているので、後妻をもらってなんとか跡継ぎを確保しないと!!!と王は思ったのだろう。それで、亡き息子に来るはずだった皇女を、自分がめとったのだった。
(でも、これ17世紀のお話よ。陸上輸送に、馬とかロバを使っていた時代の話よ。それなのに21世紀の日本でも「男子がいない、後継者がいない」と騒いでいた。やっぱりなんか違うんじゃ・・・)

皇女マリアナは、フェリペ4世自身の妹が、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝にとついで生まれた皇女。だから妹の子ども、つまり伯父と姪。

そして、マリアナは子どもを5人産んだ。
ひとり目は、超有名なマルガリータ王女。この王女様はベラスケスが描いた数多くの絵で有名です。お付きの少女達が一生懸命、ふくれた王女のごきげんをとっている絵。「ラス・メニーナス」(女官達)はことに有名。この絵はなくて、弟子が描いたコピーが来ていました。問題不出の絵らしいので、仕方ない。でも他に、ポスターになっている絵とか、お父さんが死んで喪に服している絵とかがありました。
彼女の肖像画は、かなりウイーンの美術館のものとなっている。オーストリア・ハプスブルク家にお輿入れ予定だったので、「こんなふうに育っていますよ、こんな王女ですよ」ということで、送られていたのだ。今なら写真ですね。オーストリアは革命が起こったけど、ちゃんと絵が保管されているというのは、比較的穏やかな革命だったんだなと思います。フランスとはえらい違いだわ。

まだねえ、この王女は健康そうなのよ。
次に女の子が産まれて、すぐに死んだ。
次に男の子が生まれた。ベラスケスはこの子の肖像画を描いていて、今回展示されていた。お守りとか魔除けの鈴をいっぱいつけている。病弱だったようだ。3歳で死亡。

Prospero.jpg

次にまた男の子が生まれたけど、赤ちゃんの時に兄より先に死亡。普通なら、「男の子も二人目が生まれたのだから、これで少しは安泰」と思うものかもしれないけど、そんなこと、父王フェリペ4世はまったく思えなかったに違いない。

王太子の死亡後、5日後に生まれたもう一人の息子は、成人はしたものの、重度の身体障害者だった。頭も体も。
Carlos_II.jpg

ざっとまとめると、フェリペ4世の嫡出子は13人いたけど、10人死んだ。
一人は虚弱体質で重度の障害者。
二人の女の子だけは無事に育った。
先妻から生まれたマリアテレサは、22歳でルイ14世と結婚。
当時としては、割と遅い方のように感じる。
故郷を永遠にはなれたとき、異母妹マルガリータは9歳だった。
やっぱり、父や妹、弟が心配だったのではないだろうか。
お父さんのフェリペ4世も、手放したくなかったのだろう。
でも、女の子だから、嫁がなくてはならない。

後妻の子のなかで唯一まともに育ったのが、かわいいマルガリータ王女だったのだ。

オーストリアとスペインのハプスブルク家は、他にも南イタリアその他を統治する大一族だったのだけど、連帯を保持するために血族結婚を繰り返していたのです。この時代、子どもは簡単に死んだというだけじゃない。これほど子どもが次から次へと死んだのは、そしてこの王太子の悲劇は、血がにごりすぎたためだと言われている。いくらスペイン、ナポリ、シチリア、ポルトガルなど、莫大な富と領土を誇る王家であっても、このような実態だったのです。

ベラスケスは二度、イタリアに留学している。留学中は、芸術を愛したフェリペ4世の命を受けて、いろいろな美術品を買っていたとのこと。二度目のイタリア旅行から帰って来たら、先妻が生んだ王太子は亡くなり、王は後妻を迎えていて、一家は様変わりしていたという。イタリアでそのニュースは聞いていたでしょうから、どんな気持ちだったんだろう。自分が一緒に過ごし、描いて来た王子様は自分より先に、若くしてたった16歳で死んでしまっただなんて。

ベラスケス作のマルガリータ王女は、本当にかわいらしく描かれている。
あの「ラス・メニーナス」(女官達)も、父王の大のお気に入りで、執務室に飾ってあったという。
かわいがるのは当然だ。
ベラスケスが精魂込めて、かわいく描いたもの当然だ。
まだ小さかった。マルガリータ。
病弱だったようだけど、一応健康でまとも。
王から見ても、画家から見ても、唯一、この王女だけが希望であり、宮廷の明るさだったのだと思う。

子どもを13人ももったのに、10人も自分より先に死んでしまったという父親の気持ちはどうだろう。宗教がないと生きて行けないほど辛かったのではないか。

マルガリータ王女は15歳でおじの神聖ローマ皇帝にとついで、4人子どもを産んだ。でも一人の王女をのぞいて、みんな死んでしまった。本人も、21歳で死んでしまった。流産と子どもが死ぬのを繰り返し、嘆き悲しんだあげく、死んでしまった。21歳。。。信じられない。薄幸の少女、薄幸の一族なのでした。

マルガリータの肖像画がかわいければかわいいほど、なんだか涙を誘わずにはいられない・・・という展覧会でした。

ベラスケス自身の肖像画は、複数展示されていた。弟子や他の人が描いたものは、厳しい顔つきで描かれている。画家の芸術に対する厳しさを感じさせる。一方自分で描いた自画像は、穏やかで、内省しているような、ちょっと悲しげな感じがするものもあり。

それと、「馬」が目をひいた。私が馬好きというのもあるのですが。
ベラスケスが描いた大きな白馬は、黒い部屋で印象的な形で飾ってありました。
スペイン王室の馬飼い場って、今もあるのです。写真を見た事があるけど、ものすごく美しい馬で、感動したことがある。馬はスペインの伝統なのかな。馬単体の大きなものもあったし、王族や貴族が乗っているのもあった。

それと今回の展覧会は、照明がいまいちな感じがしました。正面じゃないと明かりが反射して見えにくいケースが多かったのです。いつもはそんなこと感じる事がないのに、今回は気になったということは、あまり上手じゃなかったのだと思います。

あと、私がちょっと見た事がないような額が1、2点ありました。明らかに古い手作りで、赤が基調になっていて、金色の彫りがある。さらに、最初影かと思ったけど、そうじゃなくて、濃淡をつけて塗ってあるのです。ルーブルをはじめ、スペイン絵画はパリにそれほど多いわけじゃないと思うので、私には見慣れない感じだったのかな。あれはスペイン風の額なのかも。

来場者は「わっ、白人が多い!」と思いました。
なぜそう思ったのかは、、、わかんないです。昼間に行くと、お年寄りや女性が多いのはいつものことだけど。。。白髪の人が多かったせいもあるかな。身なりは、地味だけどきちんとしているという感じの人が多かった。パリジェンヌの常で、ちょっと目を引くすてきなポイントがあったりするけれど、全体的には落ち着いた感じのファッションの人が多かった。



ベラスケスは、マリアテレサがルイ14世へお輿入れしたのを、きちんと送り届けて見届けて、亡くなりました。マドリードで死んだことになっていますが、実際は帰路亡くなったようです。享年61世。
フィリップ4世王よりも先に亡くなりました。6歳年下の王は、5年後に彼の後をおうことになります。

後日談など。
フェリペ4世の跡継ぎのカルロス(後のカルロス2世)は、重度の身障者だったけど、王太子だから結婚している。しかも二度も。ひとり目はフランスから来たオルレアン公爵の娘だけど、26歳で死んじゃった(死に際しては色々黒い噂あり)。二人目はプファルツ選帝侯の娘。こちらは長生きしたけど、どちらも子どもに恵まれず。思いっきり良く描かれているはずの肖像画を見ても、明らかに変だとわかる男性なんだから、遠い外国から嫁いで来て、自分の夫になる人を目の当たりに見た二人の女性のショックはいかばかりだったか。。。二人の女性の身分が、微妙に低いのはそのためか。王の評判は王侯世界には知れ渡っていたに決まっており、誰もそんな男性に娘をやりたくない。それでも大帝国の王様だから、万が一子どもが生まれて育てば、と思ったのか、断るに断れなかったのか。

フェリペ4世には、庶子は複数いた。一人だけ、王子と認めて宮廷に出入りしていた子どもがいたが、王位継承権だけは絶対に与えずに終わった。健康で、軍人として戦争にも参加した子どもだった。彼の死後、この王子と2番目の奥さん皇女マリアナは対立している。自分の息子は虚弱体質で身障者なのに、庶子は健康で臣下たちから「国王に」の声も・・・マリアナ皇女も辛かったでしょうね。

それから展覧会には、その後の肖像画の世界の展示もありました。素晴らしい肖像画の金字塔をうちたてたベラスケスでしたが、その後ジャンルとして大きく発展したり、跡継ぎと言えるような素晴らしい画家は、登場しないで終わったのでした。

何もかも、最後の宮廷とともに、終わりを告げたのでした。

アーリア人 (2) コーカサス人=白人の謎

さて、今回は「コーカサス人」の謎について考えてみます。

なぜ白人=コーカサス人(コーカジアン)になったのでしょう。
この用語は、いまだに使われているようです。

(1)にも書いたように、フランスでは警察の調書などには使われているようです。全く知りませんでした。聞いた事なかったです。アメリカでは、公的な出身エスニック調査に使われているようです(州によって違うらしいんですが、このあたりの事情に詳しい資料はないでしょうか)。
この行為はフランスでは法律違反なので、よけいに私は聞いた事がなかったのでしょう。

今回はきなくさい話になってきます。書くのにものすごく神経を使いました。
私は専門家じゃないので、自分のリテラシーを頼りに、これは一般的に受け入れられていることだろうと判断したことだけを取り上げて、自分なりにまとめてみました。

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白人=コーカサス人(コーカジアン)。
現代では当の白人ですら、何のことだかさっぱりわからないという、この言葉。

初めて「白人=コーカジアン」という言葉を使ったのは、Christoph Meiners(1747 – 1810)というドイツ人でした。この人は哲学者であり、歴史家です。自然科学者とも言われます(言われないこともあるようです)。

彼は、人間の種類を、「コーカサス人」「ネグロ人」「モンゴロイド人」などに分け、さらに欧州の各民族(ケルト人、スラブ人など)を分けて評価を加えたそうです。

ある意味、この人が「世界で最初の人類学者」と呼べないこともないのに、彼に関する資料は、ネット上では極端に少ない。他の人はもっといっぱいあるのに。書いている私も、ここまで資料どころか、資料をたぐるための良いヒントすら出て来ないと、本当に書きにくい。あえて無視されているような存在に見えるのです。

なぜかというと、あからさまな人種差別主義者だったからです。
彼は白人は美しい優れた人種で、黒人は醜く劣った人種と主張したのです。

それでも、この人が後世に残した「学問的」に大きな影響はあると感じます。

それは「人間の祖先は一つではなく、人種によって別々である」という概念を提示したことです。

それまでは、この「世界」(欧州、北ヨーロッパ、オリエントあたりまで)において、人間の先祖はたった一つのカップル、アダムとイブだと思われていたのです。
アダムとイブは、旧約聖書に出て来るお話。この「世界」に住む人は、みな一神教です。ユダヤ教→キリスト教→イスラム教と、みんな旧約聖書を読む人たちでした。

コーカジアンとは関係ない、黄色人種の日本人の私から見ると、「人間の先祖は白人でアダムとイブ」という考えは、大変かたよってみえます。というか、ついていけません。分けるだけ進歩のように見えてしまいます。

肝心の「なぜコーカジアンか」についてです。
理由はいくつかあるようです。

まず、ノアの箱船。これも旧約聖書のお話です。神は堕落した人間に怒り、洪水によって人間を滅ぼす事にしました。ノアの一家は正直だったので、前もって神は「船をつくって、すべての動物を一対ずつ船に乗せろ」と知らせてくれたのでした。

人間はみんな、洪水で死んじゃったのですから、今行きている人間も動物も、みんなノアの箱船に乗った人たちの子孫ということになります。ノア一家は、アダムとイブの末裔です。

この箱船がたどりついたのが、アララト山と言われています。
アララト山というのは、現在はトルコにあります。アルメニアやイランとの国境の近くでもあります。
山が一つどんとある訳じゃなくて、山岳地帯なんです。このあたり一帯が「コーカサス」と認識されているわけです。

それから、ギリシャ神話にもアララト山は出てくるようです。人類に火を与えたプロメテウス。彼は神々の王ゼウスの言いつけに背いて、火を人間に与えたために、山にはりつけにされました。毎日ハゲタカが彼の臓物をついばみにきます。でも彼は不死なので、死ぬ事ができません。永久に苦しまなくてはならないのです。この「貼付けにされた山」がアララト山だというのですね。

ちょっと話がそれますが、プロメテウスの話(ギリシャ神話)にも、洪水が出て来ます。旧約聖書にも出て来る。シュメールの粘度版やギルガメシュ叙事詩(メソポタミア)にも出て来るそうです。異常な大洪水は本当にあったに違いありません。昔のお話というのは、史実と創作が混ざっているのが普通なのでしょう。日本書紀もそうです。どれが史実でどれが創作か、いまでも研究がずっと続いています。

さらに言うなら、西洋人にとって最も古い文献は、ずっと旧約聖書だったのです。それが、ハンムラビ法典(メソポタミア文明)が発見されて、もっと古いものが存在するとわかった。このような考古学の発展が、新しい思想の誕生に貢献したのは間違いないでしょう。まだ確認をとっていませんが、確信しています。


話は戻って、アララト山というのは、大小二つあるのですが、本当にきれいです。富士山みたい。写真だからきれいなものがネットにアップされているのでしょうが、それでもね。
やっぱり、神話に登場させたくなるには、美しさがないと。美しくないと、ものがたりは生まれません。それに高い山というのは、何か人間が近寄りがたい、崇高なものを感じさせます。日本人は富士山をもっているので、この気持ちはわかるんじゃないでしょうか。
そびえたつアララト山の美しさも、「白人=人間の起源」にしたくなる原因だと思います。


もう一つ面白い「コーカジアン=白人」説の理由をみつけました。
オダリスクが原因だというのですね。
オダリスクというのは、イスラムの君主のためのハーレムに仕える女奴隷あるいは寵姫のことです。
絵画でもよくテーマになっていますが、アングルのルーブル美術館にある絵(グランド・オダリスク)が有名です。


これが描かれたのは、1814年でかなり後のことですが、18世紀からこのテーマは描かれ続けて来ました。トルコのハーレムにいる白人女性という設定なんですが、トルコというエギゾチズムと、やたら色っぽい白人女性の取り合わせが主題です。
この女性達は、コーカサス出身だそうです。ロシア人がコーカサスの女性をトルコに渡した、あるいは売ったのだそうです。さらわれた人もいたようです。

ちょっとこの話は複雑で、ここでとまってしまいました。


あまり長々もっていても仕方ないので、ここで続く。


アーリア人 (1) 夢の民族

それは、友達のフランス人の言葉が始まりでした。
彼は、20代の時にカリフォルニアに留学していたことがあります。
大学だったか何かで、自分のエスニックのタイプを選ぶ欄がありました。
それが「アフリカン(アフリカ人)、アジアン(アジア人)、コーカジアン(コーカサス人)、、、」(以下あったかもしれないけど忘れた)だったというのです。
白人は「コーカサス人」になるそうで、「なんで??????」と訳がわからなかったという話を、私にしたのでした。

「コーカジアンって、コーカサスのこと?」
「そう。あのロシアのほうにある地方」
「なんでそれが白人っていう意味なの?」
「全然わかんない。黒人という言い方が政治的に正しくないからアフリカンなのはわかるけど、なんでなんだろうね」

という会話をしたのでした。
まったく意味不明なこととして、私の頭の中に残っていたのです。

コーカサスというのは、日本語ではカフカース(ロシア語)とも言います。
国で言うと、ロシア、グルジア(数ヶ月前からジョージアになりました。ロシア語読みのグルジアを使ってほしくないそうです)、アルメニア、アゼルバイジャンなどがある所です。カスピ海と黒海にはさまれた、コーカサス山脈のある所です。
日本語だと「コーカジアン」というよりは「コーカサイド」というほうがピンとくるかもしれません。

この話をしてから、もう7年くらい。
先日(6月11日)、無料新聞Direct Matinを見ていたら、コラム記事が。
「・・・ヨーロッパのタイプは、コーカジアンと呼ばれるのか」というタイトル。

以下、記事の訳です。

「彼らは全然コーカサスから来た訳じゃない。でもヨーロッパタイプの人は、コーカジアンと呼ばれる、特に警察の調書で。この言葉は、18世紀の終わりに、医者で人類学者のドイツ人Johann Friedrich Blumenbachが定義したものだ。なぜなら、カスピ海と黒海の間に位置しているこの地方は、人間が誕生したところと考えられていたからだ(文字が産まれたメソポタミアの近くである)。この考えは20世紀に、研究者たちがアフリカに人間の起源を発見した際に、破綻した。でも、「コーカジアン」という言葉は残ったのだ」

・・・ドイツ人? なんだか臭う。ものすごく臭う。
あの「アーリア人」である。
「ドイツ人は、最も純粋で優秀なアーリア人である」といったヒトラー・ナチスの思想。
この「コーカジアン」と「アーリア人」は絶対に何か関係あるに違いない。
これはもう、私のカンです。他に理由はないです。
こういう私のカンは、小学生の時から外れた事はないのです。
私は小学生の頃から、テレビドラマの半ばで犯人をあてる名人なのでした。

そこで調べてみました。
前回書いたように、もうそれはすごいことを発見してしまった。
なぜこんなことを、私は知らなかったのだろう・・・。
面白い。
でも、いろいろ読んだら、ぐったり疲れてしまった。
最終的には、人種差別と、恐るべきホロコーストにつながってしまう思想である。
毒気にあてられたというべきか・・・。.
善悪は別としても、エネルギーの必要な思想であり、強烈にエネルギーのある時代だったんだと思う。
何だかこう、熱にうかされたような・・・。
例が小さすぎですが、まるで「スタップ細胞、世紀の発見!」を1世紀以上にわたってやっていたような。。。

以下は、私が英語とフランス語(+たまに日本語)でネットで集めた情報を、私なりの理解でまとめたものが以下の文章です。

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アーリア人。
それは、人間の夢と願望が産んだ、幻の民族だった。

1746年、ウィリアム・ジョーンズという、後の文献学者、言語学者がロンドンで産まれた。
イングランド人とウエールズ人の系統の人だ。
英国が支配を強めてゆくインドで、裁判官をつとめる一方で、サンスクリット語に精通。ロマンス語、ギリシャ語、ラテン語、バルト語、スラブ語、ケルト語、ペルシャ語、ゲルマン語などを研究した結果、1786年、第3回アジア・ソサエティ講演会で、後に世界を変えるような重大な研究発表をした。「サンスクリット語とギリシャ語とラテン語は同じ起源をもっている」と発表したのだった。今もって有名な「インド=ヨーロッパ語族」(印欧語族)の発見である。

彼は1794年、カルカッタで47歳で死去。若い。。。

一方で、この時代は、ロマン主義が産まれた時代でもあった。
「アーリア人」を生み出したのは、ロマン主義の人たちだったのだ。

ロマン主義とは、フランス革命がおこり、古い権威は否定された時代に起きた気運である。
18世紀末から19世紀仲頃までの、時代を覆う大きな潮流であった。
これは、魂や心を表現するものだった。理性よりも感情、ミステリー、ファンタスティックさ、夢の中への逃避、恍惚・・・。病的でもあり、崇高でもあり。エギゾチックさ、過去への回帰、理想と悪夢、情熱的であり、メランコリックである。
あらゆる分野に渡る、大きな潮流だった。

ロマン主義というと、絵画や彫刻、音楽、文学などの芸術分野だけのものと考えがちである。でもこれは、時代の雰囲気であり、ある時代に欧州世界を支配した、ものの考え方である。芸術だけではなく、あらゆるもの、あらゆるジャンルに影響を与えた。逆の言い方をすると、あらゆるものがこの風潮を元にできていたと考えると、的確な理解になるのではないかと思う。

ロマン主義は、まず英国とドイツでうまれ、そこから戻るような形でフランスにやってきた。

なぜ、英国とドイツだったのか。
これは私の意見だけど、それは王室があったからだと思う。
フランス革命は、真の革命だった。従来の権威=王室と貴族を倒してしまった。
なぜなら、人間は生まれながらにして平等だから。自由だから。
そして尊ばれたのは「市民」であり「個人」だった。
これがロマン主義の基礎だと思う。
権威ではない、個人の解放と自由という意味で。
フランスは本当の革命をやって、貴族や王室の協力者をギロチンにかけるのに必死な時代だ。
ロマンにひたっている場合ではない。
でも英国やドイツはーーー。
「権威への反抗」「王室を倒す」は、現実には無理だった。するつもりも(まだ)なかったかもしれない。でも、反抗精神や、自由になりたい、自由にあこがれるという精神はうまれ、ロマン主義という芸術の形で現れたのではないだろうか。体は身分や何かに縛り付けられていても、心や魂は自由になれるから。

私は前に、ドイツ・ロマン主義の代表作家であるゲーテがいかに宮廷で受け入れられたかの、ドイツ人が書いた文章を読んだ事がある。
彼は「疾風怒濤風」(つまり破天荒)のスタイルで宮廷にやってきた。
そして食卓では「おっとちくしょう、くたばりやがれ」などと言っていた。
大抵の宮廷人は眉をしかめた。しかしまたたくまに、貴族だけではなく王室の若者までもが、みんな熱狂してゲーテのマネをし出したというのだ。
こんなふうにして、ロマン主義は広がっていったのだと思う。

ロマン主義には「過去はすばらしかった」と夢見る懐古主義の要素がある。
そもそもフランス革命の思想の中心となったルソーは、「人間は生まれながらに自由で平等だったのに、今では至る所で鎖につながれている」と主張した。自然の状態が人間の理想であり、「自然にかえれ」と言った(ことになっている)。これはまさに懐古主義だと思う。もっと「そもそも」論を語るなら、アダムとイブは楽園にいたのに、追放されてしまった。この聖書の考えから既に、懐古主義なのだ。ヨーロッパらしい思想と言えるのだけど。

19世紀になって、ロマン主義の中で、夢見るものたちがいた。

きっと、遠い昔、インド=ヨーロッパの大元になる一つの民族が存在したに違いない。彼らが世界に、言語と文化を与えたのだろう。でも彼らは衰弱して、征服された人々と混血して、失われてしまったのだ・・・でもこの世のどこかに、彼らはまだ生き延びているのではないか。そして彼らは、人間のエリートであるすばらしい人たちなのだ・・・。

この「大元になる一つの民族」に、「アーリア人」という名前を与えたのだった。

なぜ「アーリア人」という名前だったのか。
アーリアとは、サンスクリット語で「高貴な」「尊貴な」という意味である。
18世紀の時点で、最も古いインド=ヨーロッパ語族は、インド=イラン語であると認識されていた。(現在のイランという国名は、ペルシャ語で「アーリア人の地」という意味である)。
これが最も古いのだから、この名前をとって、アーリアと名付けたのだった。
現在では、アーリアというと、インド=イラン語(インド=アーリア語)のみをさす言葉になっている(これも最近は廃れて来ているらしいけど)。
でもこの時代には、アーリアとは、インド=ヨーロッパ語族の人々全部をさす言葉だったのだ。

それなら、ヨーロッパ人の始祖は、今でいうイラン&その近辺(最古の文明メソポタミアの近く)で産まれたのだろうか。
「違う。彼らはこの地にやってきたのだ。もっと前は、別のところにいたのだ」と、人々は考えたのだった。

続く。

ちょっと一休み・・・。

長いこと更新しなくてすみません。
かなり長いこと、不在にしていました。ベルギーからイタリアまで、2回の旅行で大移動しました(というほどのものでもないか)。今、やるべきたまっていた事が一段落したところです。

でもあれね、パリからブリュッセルには1時間半かからないのに、マルセイユには3時間くらいかかり、ニースに至っては、6時間弱かかる。7時間くらいかければ、イタリアに入る。
今回、弓状に移動して、あらためて大陸を感じました。
ちょうど今年、ベルギーでは、ナポレオンのワーテルロー300年の記念式典をやっているけど、風景としては同じだわね。(ワーテルローは今のベルギーにあります。ブリュッセルの近く)。ずーっと基本的に平原。地図を見ながら歴史を見ると、「こんなに広い領土を征服するなんてすごい」と思ってしまうけど、実際はただの田舎の平原で、拠点拠点の街を征服していくことになる。一つの街を征服すると、次は何百キロ向こうの街、という感じ。大挙して敵の軍隊がやってくるのだから、味方の大軍が守ろうとしない限り、小さい街なんてさっさと降参して大人しくしているのが普通。占領するほうも、抵抗しない限り、そのまんまというのが普通ーーー文明の地では。だから、勢いづくと、あっという間に広域を占領することになる。こういうのって、島の中の日本を見ていると、わからない。大陸を鉄道か車で旅行することをお薦めします。

南の地中海世界から北へ北上していくと、アビニヨンくらいから風景が変わる。糸杉(ゴッホで有名)やオリーブがなくなって、赤褐色のレンガ作りの建物がどんどん少なくなる感じで、風景も冷んやりさを帯びて来る。でもこれを「冷んやり」なんて呼んだら、もっと北の人はどうなるのか、という程度の違いなんだけどね。
パリを超してフランス領土内は平原だけど、ベルギーに入る当たりから、ちょっと森というか、そういうのが増えて来る印象がある。フランスって、高い山をのぞくと、木があったとしても、森というよりは林だと思うのよね。でも、もっとベルギーも進んで行くと、また平原になる。ワーテルローなんてまっさらの平原。

こうやって見て行くと、ローマ法皇庁がアビニヨンに来た事がありますが、「これがギリギリの限界」だったことが、よくわかります。あれから北に行くのは、絶対にイヤだったんだろうな〜と。歴史は細部に宿るというけれど、法皇をとばすと決定したとして、どのようにしてアビニヨンに決まったのか、どういう交渉があったのか、とっても興味がありますね。

前にランスにいったことがある。シャンパンで有名ですね。ここにもローマの遺跡があるんだけど・・・。冬にいったもんだから、寒々として、石の遺跡が濡れて黒ずんでいて、見ていて痛々しくなりました。こういうのって、暑くて乾いた地中海世界にはない光景。ローマから派遣されて来た役人とか軍人とかいたのでしょうが、さぞかし故郷が恋しくて泣いただろうな、、、帰りたいよお、寒いよお・・・と嘆いた思います。時間がたつにつれ、現地の女性と結婚する人が出て来たりして、混血も進むだろうし、そういう人の子どもが活躍したり、現地の人が統治したりするようになっていくのは、自然の成り行きでしょうね。

欧州は広いです。ジョークでこんなのがあります。
「気温が0度になると、スカンジナビア人が日光浴のために外に出だして、ギリシャ人が寒くて死に始める」。 
このジョークはフランス人に言っても受けて笑いがとれます。

さて、大陸からトンネルか海を超えてイギリスに渡ると、ぐっと空気が湿って、丘が多くなるのです。私はイギリスの丘を見るたびに、ポール・マッカートニー(ビートルズ)の「Fool on the hill」を思い出す。ユーロスターの中で口ずさんじゃう。ちょうどフランスにコンサートに来た所です。日本にもいったみたいですね。私も前に一度、ドームに見に行きました!
「世界の恵まれない子どものために、この歌を送ります」といって歌ったのが、レットイットビー。うーん・・・・・・・・・・何もするな、なすがままに、と??? 何もしなくていいのか、恵まれない子どもを助けなくていいのか、と内心思いましたが、これはチャリティもかねているコンサートなのでした。
ポールの頭脳というのは、極めて平凡に出来ているのだと思う。人柄もよく、真面目なんだと思う。あれほどの億万長者なのに、浮ついたキンキラキンのゴシップは(たぶん)なし。フツーの良い人なんだと思う。だから素朴で、みんなに愛される歌をつくれるのだろう。

ところで話は変わりますが、私はフランスのある会社の携帯を使っているけれど、イギリス、ベルギー、ドイツ、イタリア、どこに言っても、料金は同じ。その国に入ると勝手に、提携している会社のネットワークにつながる。イギリスとドイツはヴォーダフォンだった。イタリアとベルギーは忘れた。(ちなみに日本はドコモだった)。
電話をかけると1分0、23ユーロ。受けると0、06ユーロ。
SMSは送ると1通0、07ユーロ、受けるのは無料。
全部同じでした。イギリスだと「お得なパックがあります。このメッセージに××を書いて返信するだけで申し込めます」というのが来たわね。
契約会社や、契約の内容によって違うのでしょうけど、私のはこうでした。SMSが安いから、こればっかり使ってました。たまーーーに、時間差があるときがあって、すぐに届かない事があるけど、大抵は大丈夫。
うーん、国境がどんどんなくなっているなあ、と思う。

実はいま、変なテーマにハマっています。
それは「コーカサス人」というもの。
ある新聞記事が目にとまったのだけど、この記事は「アーリア人」を連想させた。
そう、あの「ドイツ人は最も純粋で優れたアーリア人」という、ナチスのあれです。
調べ出したら、面白いのなんの。
1本引っこ抜こうとしたら、下からものすごい根が何本も出て来たという感じです。
アーリア人という「思想」は、帝国主義の時代をヨーロッパ全体を覆った、大きなものだったのです。
私はヨーロッパの歴史をもう高校生のころから読んでいて、はや○十年。これを知らなかったのか・・・こんな面白い事がヨーロッパの歴史に実際に起こっていたのか、とヨーロッパを見る目が変わりそうなほど面白いです。
これは深刻なヨーロッパの南と北の対立であり、メソポタミア文明とギリシャ・ローマ文明を敵にまわす(?)というお話だったのですよ。。。あと、何かこう、コミカルというか、どうしても笑ってしまうというか・・。「悲劇とは実は喜劇である」というようなことを言った偉い作家がいたと思うけど、そういう感じでもある。
また、帝国主義を正当化するものであり、自国に有利なようにどこも論陣を張っていたという事情も興味深い。
すごい時代だったのね。
いくらこの思想が、ナチスによって最後に行き着いたところがガス室というおぞましいことだったからといって、そこに至るまでの過程を全部できるだけ話さない事にするのはどうかなと。
気持ちはわかるけど。
行き着いた所がひどすぎただけというだけじゃなくて、恥ずかしくて話す気になれないというのもあるでしょう。
まるでスタップ細胞のようなお話です。科学と、人間の欲望、願望、夢が混ざり合って、とんでもないことになったという・・・。日本人としては、スタップ細胞の騒動はなかったことにしたい。例がせこくてスケールが小さすぎますが、人間心理としては共通のように思えます。
次回を待ってください。

だまされる所だった(笑)

郵便受けに、1通の手紙。
私のしている仕事(登録が必要)に関連している言葉が入った封筒。
あけてみると、198ユーロ、小切手で払えと書いてある。
特に説明がなく、すごく事務的な感じ。
まるで払わなくてはならないような感じを与える。

それでも、ここまで説明がないのは変なのではないか。
それに、私の名前も住所もあっているが、内容が少し変。

これって何だろう、払わなくてはいけないだろうか、と言葉をネットに入れてみると。

Arnaque
Arnaque
Arnaque
Arnaque
Arnaque....

これは口語で「詐欺」「ぺてん」という意味。
これほど画面上にこの言葉が出ているのを見た事がない(笑)。
一生分、見た気分だ。

そっかー、詐欺かー。
送らなくてよかった!
ネット社会で良かった!

でも、私の情報はどこでもれているのだ。
しっかりしろ!!!

そういえば、この前友達が、アパートを借りるのにだまされそうになりました。
ネットでみつけた良さそうな物件。もっともらしい、安く貸さなければいけない理屈をつけていた。
それは立派な賃貸契約書がネットで届いた。
ごていねいに、FACEBOOKまで持っている。

ネット上の取引は要注意。
ウエスタン・ユニオンとかには、「賃貸の詐欺に注意!」というページも登場している。
国際的に簡単に現金で送って現金で受け取れる時代だから、身元なんかわかったものじゃない。
銀行口座ならまだなんとかなるけど。
その友達は、現金を送ろうとして、受付のお姉さんに「やめなさい」と言われてやめたそうです。
友達はフランス語がほとんどわからず、受付のフランス人は英語もほとんどわからないのに、お姉さんは「怪しい」ことだけは感じ取り、「やめろ」ということは伝わったのだった。
偉いぞ!
オレオレ詐欺をATMの前でくいとめる銀行員みたい。
ほーんと、危険がいっぱい。

私なんて、友達のメルアドから「アフリカに居て事件に巻き込まれて困っている。お金を送ってくれ」というメールが来て、信じてしまった。
「どうしたの?どこにいるの?」と送ったら、1秒後くらいに長いメールで「ここそこにいくら送って」と具体的な依頼が来て、「??」と思った。
「そんなの詐欺だろ」と言われて我に返り、「大変だわ!警察に知らせるわね!」と書いて送ったら、ぱたっと返事が来なくなった。確認のため、その友達に電話してみたら、いましたとさ。のんきに「ボンジュール!久しぶりだね。元気?」だって(苦笑・・・)

ということは、あれって自動送信になっていた訳じゃないのね。自動送信だからあんなに速いのかと思ったけど(だからおかしいと思った)、パソコンの前で張っていて返信したのかしら。
おつかれさん・・・。

相手は、こっちが食べている間も仕事している間も寝ている間も、いかに詐欺やってお金をだましとろうか考えているんだから、こっちも十分に警戒しないとね。
スリも同じよ。先週、旅行者の友達がお財布をすられちゃったけど、こっちのほうは狙われたらおしまい。それこそ、朝から晩まで、毎日毎日、何年も、スリばっかりやっているんだから。

お互い気をつけましょう。


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