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アーリア人 (1) 夢の民族

それは、友達のフランス人の言葉が始まりでした。
彼は、20代の時にカリフォルニアに留学していたことがあります。
大学だったか何かで、自分のエスニックのタイプを選ぶ欄がありました。
それが「アフリカン(アフリカ人)、アジアン(アジア人)、コーカジアン(コーカサス人)、、、」(以下あったかもしれないけど忘れた)だったというのです。
白人は「コーカサス人」になるそうで、「なんで??????」と訳がわからなかったという話を、私にしたのでした。

「コーカジアンって、コーカサスのこと?」
「そう。あのロシアのほうにある地方」
「なんでそれが白人っていう意味なの?」
「全然わかんない。黒人という言い方が政治的に正しくないからアフリカンなのはわかるけど、なんでなんだろうね」

という会話をしたのでした。
まったく意味不明なこととして、私の頭の中に残っていたのです。

コーカサスというのは、日本語ではカフカース(ロシア語)とも言います。
国で言うと、ロシア、グルジア(数ヶ月前からジョージアになりました。ロシア語読みのグルジアを使ってほしくないそうです)、アルメニア、アゼルバイジャンなどがある所です。カスピ海と黒海にはさまれた、コーカサス山脈のある所です。
日本語だと「コーカジアン」というよりは「コーカサイド」というほうがピンとくるかもしれません。

この話をしてから、もう7年くらい。
先日(6月11日)、無料新聞Direct Matinを見ていたら、コラム記事が。
「・・・ヨーロッパのタイプは、コーカジアンと呼ばれるのか」というタイトル。

以下、記事の訳です。

「彼らは全然コーカサスから来た訳じゃない。でもヨーロッパタイプの人は、コーカジアンと呼ばれる、特に警察の調書で。この言葉は、18世紀の終わりに、医者で人類学者のドイツ人Johann Friedrich Blumenbachが定義したものだ。なぜなら、カスピ海と黒海の間に位置しているこの地方は、人間が誕生したところと考えられていたからだ(文字が産まれたメソポタミアの近くである)。この考えは20世紀に、研究者たちがアフリカに人間の起源を発見した際に、破綻した。でも、「コーカジアン」という言葉は残ったのだ」

・・・ドイツ人? なんだか臭う。ものすごく臭う。
あの「アーリア人」である。
「ドイツ人は、最も純粋で優秀なアーリア人である」といったヒトラー・ナチスの思想。
この「コーカジアン」と「アーリア人」は絶対に何か関係あるに違いない。
これはもう、私のカンです。他に理由はないです。
こういう私のカンは、小学生の時から外れた事はないのです。
私は小学生の頃から、テレビドラマの半ばで犯人をあてる名人なのでした。

そこで調べてみました。
前回書いたように、もうそれはすごいことを発見してしまった。
なぜこんなことを、私は知らなかったのだろう・・・。
面白い。
でも、いろいろ読んだら、ぐったり疲れてしまった。
最終的には、人種差別と、恐るべきホロコーストにつながってしまう思想である。
毒気にあてられたというべきか・・・。.
善悪は別としても、エネルギーの必要な思想であり、強烈にエネルギーのある時代だったんだと思う。
何だかこう、熱にうかされたような・・・。
例が小さすぎですが、まるで「スタップ細胞、世紀の発見!」を1世紀以上にわたってやっていたような。。。

以下は、私が英語とフランス語(+たまに日本語)でネットで集めた情報を、私なりの理解でまとめたものが以下の文章です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アーリア人。
それは、人間の夢と願望が産んだ、幻の民族だった。

1746年、ウィリアム・ジョーンズという、後の文献学者、言語学者がロンドンで産まれた。
イングランド人とウエールズ人の系統の人だ。
英国が支配を強めてゆくインドで、裁判官をつとめる一方で、サンスクリット語に精通。ロマンス語、ギリシャ語、ラテン語、バルト語、スラブ語、ケルト語、ペルシャ語、ゲルマン語などを研究した結果、1786年、第3回アジア・ソサエティ講演会で、後に世界を変えるような重大な研究発表をした。「サンスクリット語とギリシャ語とラテン語は同じ起源をもっている」と発表したのだった。今もって有名な「インド=ヨーロッパ語族」(印欧語族)の発見である。

彼は1794年、カルカッタで47歳で死去。若い。。。

一方で、この時代は、ロマン主義が産まれた時代でもあった。
「アーリア人」を生み出したのは、ロマン主義の人たちだったのだ。

ロマン主義とは、フランス革命がおこり、古い権威は否定された時代に起きた気運である。
18世紀末から19世紀仲頃までの、時代を覆う大きな潮流であった。
これは、魂や心を表現するものだった。理性よりも感情、ミステリー、ファンタスティックさ、夢の中への逃避、恍惚・・・。病的でもあり、崇高でもあり。エギゾチックさ、過去への回帰、理想と悪夢、情熱的であり、メランコリックである。
あらゆる分野に渡る、大きな潮流だった。

ロマン主義というと、絵画や彫刻、音楽、文学などの芸術分野だけのものと考えがちである。でもこれは、時代の雰囲気であり、ある時代に欧州世界を支配した、ものの考え方である。芸術だけではなく、あらゆるもの、あらゆるジャンルに影響を与えた。逆の言い方をすると、あらゆるものがこの風潮を元にできていたと考えると、的確な理解になるのではないかと思う。

ロマン主義は、まず英国とドイツでうまれ、そこから戻るような形でフランスにやってきた。

なぜ、英国とドイツだったのか。
これは私の意見だけど、それは王室があったからだと思う。
フランス革命は、真の革命だった。従来の権威=王室と貴族を倒してしまった。
なぜなら、人間は生まれながらにして平等だから。自由だから。
そして尊ばれたのは「市民」であり「個人」だった。
これがロマン主義の基礎だと思う。
権威ではない、個人の解放と自由という意味で。
フランスは本当の革命をやって、貴族や王室の協力者をギロチンにかけるのに必死な時代だ。
ロマンにひたっている場合ではない。
でも英国やドイツはーーー。
「権威への反抗」「王室を倒す」は、現実には無理だった。するつもりも(まだ)なかったかもしれない。でも、反抗精神や、自由になりたい、自由にあこがれるという精神はうまれ、ロマン主義という芸術の形で現れたのではないだろうか。体は身分や何かに縛り付けられていても、心や魂は自由になれるから。

私は前に、ドイツ・ロマン主義の代表作家であるゲーテがいかに宮廷で受け入れられたかの、ドイツ人が書いた文章を読んだ事がある。
彼は「疾風怒濤風」(つまり破天荒)のスタイルで宮廷にやってきた。
そして食卓では「おっとちくしょう、くたばりやがれ」などと言っていた。
大抵の宮廷人は眉をしかめた。しかしまたたくまに、貴族だけではなく王室の若者までもが、みんな熱狂してゲーテのマネをし出したというのだ。
こんなふうにして、ロマン主義は広がっていったのだと思う。

ロマン主義には「過去はすばらしかった」と夢見る懐古主義の要素がある。
そもそもフランス革命の思想の中心となったルソーは、「人間は生まれながらに自由で平等だったのに、今では至る所で鎖につながれている」と主張した。自然の状態が人間の理想であり、「自然にかえれ」と言った(ことになっている)。これはまさに懐古主義だと思う。もっと「そもそも」論を語るなら、アダムとイブは楽園にいたのに、追放されてしまった。この聖書の考えから既に、懐古主義なのだ。ヨーロッパらしい思想と言えるのだけど。

19世紀になって、ロマン主義の中で、夢見るものたちがいた。

きっと、遠い昔、インド=ヨーロッパの大元になる一つの民族が存在したに違いない。彼らが世界に、言語と文化を与えたのだろう。でも彼らは衰弱して、征服された人々と混血して、失われてしまったのだ・・・でもこの世のどこかに、彼らはまだ生き延びているのではないか。そして彼らは、人間のエリートであるすばらしい人たちなのだ・・・。

この「大元になる一つの民族」に、「アーリア人」という名前を与えたのだった。

なぜ「アーリア人」という名前だったのか。
アーリアとは、サンスクリット語で「高貴な」「尊貴な」という意味である。
18世紀の時点で、最も古いインド=ヨーロッパ語族は、インド=イラン語であると認識されていた。(現在のイランという国名は、ペルシャ語で「アーリア人の地」という意味である)。
これが最も古いのだから、この名前をとって、アーリアと名付けたのだった。
現在では、アーリアというと、インド=イラン語(インド=アーリア語)のみをさす言葉になっている(これも最近は廃れて来ているらしいけど)。
でもこの時代には、アーリアとは、インド=ヨーロッパ語族の人々全部をさす言葉だったのだ。

それなら、ヨーロッパ人の始祖は、今でいうイラン&その近辺(最古の文明メソポタミアの近く)で産まれたのだろうか。
「違う。彼らはこの地にやってきたのだ。もっと前は、別のところにいたのだ」と、人々は考えたのだった。

続く。
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